本章では、リン鉱石の採掘が行われた島々の個別の採掘史を再度振り返るとともに、各島の住民が採掘にどのようにかかわり、採掘が住民生活にどのような影響を与えたのかを考察する。紙数の都合上すべての島について論述することは不可能であるので、大規模採掘が行われたナウルとバナバ両島、及び日本によって採掘が行われたアンガウルとファイスの、以上4島をとりあげることにする。
(一)ナウル
ナウルにおけるリン鉱石の採掘は1906年に始まった。採掘開始に伴ってナウル人たちへはトン当たり0.5ペニーのロイヤリティが支払われたが、これは住民との契約や合意に基づくものではなく、採掘者側が恣意的に決定したものであり、積み出し価格のわずか700分の一にすぎなかった(16)。以来独立まで、ナウル人たちには採掘量や売却価格の決定に参加する権利は与えられなかった。
採掘開始によって、それまで自給自足を基本としていたナウル人たちの生活は大きく変化した。採掘労働のための中国や周辺諸島から労働者の導入や白人居住者の増加(17)は、島の生活体系を貨幣経済中心に大きくシフトさせた。可耕地の減少と外来産品の流入は、ナウル人たちの食生活を、それまでのココナツと魚から缶詰や小麦粉などの輸入食品へと変化させていった。
第一次世界大戦によって島の施政権がドイツの手を離れた後は、太平洋戦争時に数年間日本に占領された時期を除き、1968年のナウル独立までの間、オーストラリアが島の行政を司った。行政官たちは、ナウル人の土地に関する権利を制限したり、夜間外出を原則禁止とするなど、国策会社たるBPCの採掘活動の便宜を図ることを第一義に施策を行った。ナウル人たちが自らの意思を行政に反映させるのは、1951年のナウル地方政府評議会の設置まで待たなければならなかった(18)。
1968年のナウル共和国独立は、こうした外来者による資源収奪にピリオドをうち、ナウル人自らが資源管理を行ってその利益を享受することを可能にする大きな転換点であった。ナウル地方政府評議会を率いて独立交渉にあたった初代大統領デロバート(Hammer de Robert)は、独立を前にしてBPCのリン鉱に関するすべての権利を2100万豪ドルで買収することで合意にこぎつけ、1970年以降、ナウルのリン鉱石は新たに設立された国営ナウルリン鉱石会社(NPC)によって採掘されることになった。
NPCは、最盛時には年間239万トンものリン鉱石を生産し(1973/74年)、政府とナウル人地主たちに莫大な利益をもたらした。ナウル人たちは、採掘労働は従来通り周辺諸島からの出稼ぎ労働者に任せ、税金なし、電気代や医療費、教育費はすべて無料、結婚すると政府が新居を提供する、といった高福祉政策を享受した。自らは生産活動を行わず、水や食料品に至るまでほとんどすべての生活物資は外国から輸入し、時には飛行機をチャーターして外国に買い物旅行に出かけるといったナウル人たちの行動は、周囲からしばしば「成金」と陰口をたたかれたが、一方では潤沢な資金を背景に、経済自立の困難な周辺島嶼諸国に対して様々な資金援助も実施した。こうしてナウルは、70~80年代には「世界で最も豊かな国」という形容もなされるようになった。
しかしながら、リン鉱石の枯渇が近づくにつれて、ナウルの将来は不安の色を濃くしていった。長年の採掘によって、島の大半はピナクルと呼ばれる石灰岩が屹立した利用不能の土地となっている。政府は、20世紀中には訪れると予測されたリン鉱石枯渇後に備え、基金を設立して不動産や証券投資を行って資産拡大に務めたが、「経営」や「管理」といった経験のないナウル人たちのこれらの事業は、放漫経営や詐欺などによって、収益をあげるどころか莫大な損失を出してしまった。
他方、独立以前の採掘地の復旧責任の追及は、ナウル政府樹立以来の課題の一つであった。1986年にナウル政府は採掘地の復旧に関する独立調査委員会を設置し、委員会の5000頁に及ぶ報告書を受けて、オーストラリアを相手取り旧施政国の責任を追及する訴訟を国際司法裁判所に提訴した。第一次世界大戦までにPPCが63万トン、独立までにBPCが3400万トンのリン鉱石を積み出しており、これによる英豪NZ三国の利益は10億豪ドル以上、復旧経費は7200万豪ドルであると同委員会では推計している。
復旧責任を求めるナウル政府に対して、被告のオーストラリアは当初争う姿勢を見せていたが、環境回復のために1億700万豪ドルを支払うことで1993年に和解が成立した。その後オーストラリアはイギリスとニュージーランドと交渉を行い、両国もその一部を負担することになった。
しかしながら、仮に荒廃地の埋め戻しができても、そこに何らかの産業投資をするだけの資金余力はもはやナウルにはない(19)。クーラー、冷蔵庫、冷凍食品、自動車といった消費生活に慣れ親しんだナウル人たち(20)が、これまで享受してきた生活水準を維持することは今後ますます困難になろうが、かといって自給自足的生活に戻ることも不可能に近い。
100年間にわたってリン鉱石に翻弄されてきたナウル人たちは、明確な将来設計を見いだせないまま、いよいよリン鉱石の枯渇を目前にしている。
(二)バナバ(21)
ナウル島が第一次世界大戦以後は国際連盟の委任統治を経て国際連合の信託統治となって、曲がりなりにも国際機関の監視下におかれたのに対して、バナバ島は一貫してギルバート&エリス諸島植民地の一部としてイギリスの支配下に置かれた。その結果、ナウルと同じ採掘主体によって採掘が行われたにもかかわらず、バナバ人たちはナウルに比べてはるかに困難な現実に直面し続けてきた。
リン鉱石の発見と、それに続く採掘による耕作地の破壊と商品経済の発展は、ナウル同様バナバ人たちの生活を激変させた。バナバ人たちは、1915年頃までにはパンダナスなどの伝統的な食糧を放棄し、輸入缶詰、小麦粉、砂糖、米などに依存するようになった(22)。店員、事務員、病院助手など相対的に給料のいい仕事に就くことの多かったバナバ人たちは、概して周辺の島々の住民に比べて物質的に恵まれた境遇を得た(23)。イギリスは、1908年にギルバート&エリス諸島行政府をタラワ島からバナバ島に移転し、その植民地行政予算のほとんどをバナバ島の経営に費やし、無聊をかこつ白人居住者の娯楽として映画も上映された。また、植民地政府によって取水設備が整備され、輸送船が定期的に入港するようになったことにより、それまでバナバ社会の最大の不安だった水不足や旱魃による飢餓の心配も取り除かれた(24)。そしてバナバ人たちも自ら資金を出し、1920年代には病院や学校も建設された(25)。
しかしながらその一方で、周囲10キロの島における大規模な採掘活動がバナバ人たちの生活空間を脅かすとともに、際限のない土地破壊は必然的にバナバ人たちに強い危機感を与えた。要求と抗議を繰り返すバナバ人に対して、植民地政府と会社側は、時には採掘料の引き上げなどで一定の譲歩をすることもあったが、土地の強制収容規定を定めたり、ヤシの木にしがみついて抵抗する女性たちを実力排除するなど、ナウル同様、採掘の便宜を第一として行動した。また摩擦と軋轢を解決するため、1920年代後半から植民地政府はバナバ人を別の島に移住させる計画を進めていった。
太平洋戦争で日本軍の占領を受けたバナバ島では、食糧確保の困難さから日本軍により全住民が強制疎開させられた(26)。バナバ人たちはナウル、コスラエ、タラワの三島に分散移住させられていたが、戦後連合軍は全員をタラワ島に集め、バナバ島は戦禍により居住不可能であるとして、かねてより移住地として購入していたフィジーのランビ島にそのまま送致した。形式的には合意に基づく送致だったが、当時を記憶しているバナバ人長老の一人テカオブウェレ氏は、筆者に対して「住めないという話を信じるしかなかった。バナバには帰れないと言うし、実質的には他に選択肢がなかった」と述懐している。一方BPCは、バナバ人たちがランビ島に移住した直後から再びバナバ島での採掘活動を再開し、島は2年後には2000名もの採掘労働者で賑わうまでに復興を遂げた。
戦争中に家財を失い、ほとんど手ぶらでフィジーのランビ島到着したバナバ人たちに、以後故郷を訪れる機会は与えられなかった。バナバ島に関する情報を遮断されたまま、毎年幾ばくかのロイヤリティを受け取りつつ、バナバ人たちはフィジーの離島で自給自足をベースとした生活を余儀なくされた。
やがてナウルが独立とリン鉱採掘に関する全ての権利を獲得したことを知ったバナバ人たちは、70年代に入ってナウル同様の地位獲得を目指す運動を開始した。まずBPCとイギリス王室を相手に賠償金や補償金の支払いを求めて提訴、また当時独立を控えたギルバート諸島(現キリバス)が独立後の重要な財源として考えていたリン鉱石の収益金を元手とした基金の引き渡しとバナバ島の分離独立を要求した。
70年代を通じたこうした闘いは、英豪NZ三国から1000万ドルの和解金とBPCからの賠償金、そしてバナバ人の故郷への自由通行権とキリバス議会へのバナバ人議席を獲得したが、彼らの求めたナウル型の独立は果たすことができなかった。
1979年のリン鉱石枯渇以降は、島の保全を目的にランビ島からの再植民を行い、現在では200名余りのバナバ人たちが島に居住している(27)。しかしながら和解金や補償金から設立したバナバ信託基金は運用者の持ち逃げにあい、再植民者たちとの連絡も途絶えがちになっている。リン鉱石の採掘は、フィジーとキリバスという二つの国の狭間で、バナバ人たちに疎外されたマイノリティという不条理な役割を強いる結果となった。
(三)アンガウル
ドイツ植民地時代、日本統治時代の採掘を経て、1955年にリン鉱石の採掘の終わったアンガウル島は、パラオ本島の南端にある8平方キロ余りの小島である。すでに採掘終了から40年以上が経ち、島の中央部の採掘跡は木の茂る窪地と池になっており、一見しただけではそこで大規模な採掘が行われたとは気がつかない。かつてリン鉱石採掘時には周辺諸島から大勢の労働者を集めたこの島の住民は、1995年現在46家族193人で、島には電気や水道、そして小さいながらも港湾設備があり、落ちついた太平洋の田舎のたたずまいを見せている。住民たちは自転車やバイクを島内の交通手段として所有しており、後述するファイス島に比べると物質的にははるかに裕福な暮らしぶりに見える。しかしながら1995年統計では島の住民一人当たりの年収は1370米ドルで、これはパラオ全体の平均の4割程度にすぎない。しかも採掘によって表土のあらかたを削り取られてしまった採掘跡地は農耕に不適な土地となっており、これといった収入源に乏しい島に暮らす住民たちには大きな打撃になっている。
地元のレオン・グリベルト氏の話によると、採掘権契約はドイツ人に海上に連れ出された住民代表が、「海に沈むかサインするか」と迫られて結ばれたものであるという。以後、日本時代までロイヤリティは支払われていなかった。アメリカ統治時代にはトン当たり25セントが地主に支払われたが、この金額を決定する際も地主との協議は行われておらず、地主たちは不当に安い設定であると主張している(28)。
1993年にナウルがオーストラリアなどから環境破壊の復興資金として1億700万豪ドルを受け取ることになったことは、アンガウル住民たちのこうしたこれまでの経緯と現状に対する不満に火をつけ、賠償を求める行動を起こす契機となった。1995年、住民たちはアンガウル州リン鉱石採掘賠償請求委員会を結成し、採掘にかかわったドイツ、日本、アメリカ三政府に代表団を送って賠償を要求する請願書を提出した。三国政府は、日本政府が「解決済み」と回答するなど要求を受け付けない姿勢を見せているが、住民たちは今後も訴訟を含め賠償要求を行っていくとしている。しかしながら、アンガウルの場合は採掘地の地主18家族の運動であり、国(パラオ政府)が動き出す可能性は低い。1997年9月に筆者が現地訪問した際には、委員会メンバーの一人は12月までには何らかのアクションを起こすと語っていたが、98年8月現在何の動きも報じられていない。
(四)ファイス
ファイス島でのリン鉱石の産出量は、上記三島に比べると圧倒的に少なく、また採掘が行われていたのも1938~44年のわずか7年間のことである。推定埋蔵量は73万トンで、採掘時には日本人50名、周辺諸島から集められた者も含め現地人200名が採掘に従事していた。年間生産量は4~5万トンを目指していたが、配船がままならず、3万トン程度に留まった。事業を行った南洋拓殖は、事務所、職員宿舎、鉱夫宿舎、売店、倉庫、移送用レールなどを建設したが、船の接岸が困難であったことから、積み出しは島の北西にある高さ10メートルほどの崖からクレーンでハシケに移す方式がとられ、港の整備は行われなかった。住民たちは操業中、鉱夫や沖仲士として働くことで現金収入を得たが、戦争の激化によって操業が休止されて以降は、また元通りの自給自足をベースにした暮らしに戻った。現在島の住民たちが有効利用している採掘関連施設としては、雨水貯蔵用のコンクリート製水タンクがある(29)程度である。他方アンガウル島同様、採掘跡地は荒れ地で耕作不能となっており、その広さは島の中央部を中心に島の三分の一程度に及んでいる。
1994年現在のファイス島住民は301名で、1997年に筆者が現地調査した時点では、島に商店は一軒、車両は一台だけで、電気や上下水道などのインフラ施設はまったく整備されていなかった。1994年センサスによると45家族中現金収入があるのは10家族で、これらは島の小学校教員(11名)、不定期に飛んでくる航空会社のエージェント、幼稚園職員である。住民たちの収入機会は、このほかにはコプラや民芸品の生産による不定期収入、出稼ぎ・移住者からの送金があるのみで、生活の基礎は漁労と農耕による自給自足をベースにした典型的なミクロネシア離島民のスタイルになっている。しかしながら島のまわりに珊瑚礁があまり発達していないため、海が荒れると出漁できず、必然的に生活の基盤は漁労よりもむしろイモ類の耕作に依存している。
ところが上述したように、リン鉱石採掘の結果島の中央部に広がる土地が、有効利用が不可能な荒れ地となってしまっているため、住民たちは村から島の反対側にある小さな可耕地まで農作業に向かわなければならない。決して肥沃とは言えない土壌の中で農耕に依存している住民たちにとって、リン鉱石の採掘は大きな苦難を与える結果となっている。
アンガウル島同様、ファイス島の住民たちもこうした現状の打開を求めており、住民会議では採掘を行った日本に対して補償を求める決議を行っている。アンガウル島と異なるのは、それが全住民の意志であること、そして金銭的補償ではなく土を返してくれという要求であることである。日本のバブル期に建設残土の海外輸出の話が持ち上がったことも、住民たちのこうした復旧措置への期待を高める結果となった。
しかしながら、住民の要求は州政府やミクロネシア連邦政府を動かすまでに到っておらず、バブル崩壊によって建設残土輸出の計画も立ち消えになっている。
三.結びにかえて ~島嶼における資源採掘の意味~
リン鉱石の採掘は島そのものの破壊であった。島という逃げ場のない小世界で土地を破壊する採掘事業は、脆弱な自然環境の中で生きる住民たちにとっては、生活手段すべてを奪う行為といっても過言ではない。採掘を行った側が次第にその事実すら忘れ去ろうとする中で、各島の住民たちは、日々、破壊の現実とその影響に直面しているのである。
現在においても、独立成った島々では、国家経済の基盤を確立するため、先進国資本の主導の下に天然資源の開発が行われている。特にメラネシア諸国では金や銅、石油などの地下資源の開発が行われ、木材の伐採が進行している。そうした中で、企業や政府と地元住民との軋轢は依然として絶えず、世界有数の銅鉱山のあったブーゲンビル島では、公害と利益分配の問題から1988年に武装蜂起が起こり、9年間にわたって多くの死者を出す紛争にまで発展した。また、ソロモン諸島経済再建の切り札とされるガダルカナル島のゴールドリッジ金山では、下流住民からの補償要求に決着を見ないまま、今年操業が開始された。
リン鉱石採掘の歴史と島々の現在は、100年後に遺恨を残さない開発のあり方を考える上で、極めて示唆的である。我々はこの経験を歴史の中に埋没させることなく、新たな歴史を築く中に活かしていかなければならない。
歴史に学ぶ姿勢が我々に問われているのである。
【註】
(1)リン鉱石とはリンを主成分とする鉱物の総称で、19世紀に入って肥料としての価値が欧米で認知され、精製技術の革新により需要が飛躍的に拡大した。太平洋の島々で生産されたリン鉱石は、海鳥のフンや卵殻などが雨水で分解され、サンゴ礁の石灰岩と化合して形成された島嶼リン鉱とよばれるものである。また乾燥地帯で排泄物等がそのまま堆積したものをグアノという。
(2)このグアノ採掘の労働者確保のために、太平洋諸島ではブラックバーディングといわれる奴隷狩りが行われ、イースター島、エリス諸島(現ツバル)、クック諸島などから大量の男たちが連れ去られた。太平洋諸島における奴隷狩りについては Maude, H.E., 1981, Slavers in Paradise. Australian National University Press. 参照。
(3)同法を根拠に、以後アメリカは中部太平洋の無人島の領有権を主張し、1980年代までイギリスなどとの係争事項となった。
(4)西野照太郎『新南方見聞録』56頁 朝日イブニングニュース社 1979年
(5)バナバ島は当時、西洋人発見者の名前をとってオーシャン島と呼ばれており、文献上はオーシャン島と記述されていることが多い。本論文では地元固有の島名で現在の正式名である「バナバ島」に統一して表記する。
(6)太平洋諸島会社はバナバ島の王(king)との間で契約を交わした。現存する契約書を見ると、島の王がバツ印をつけて署名している。しかし、当時ヨーロッパ人がいなかったこの島で、住民が英文で書かれた契約書の内容を理解していたのか疑問が残るところである。またバナバ人の子孫たちは筆者に対し、彼らの社会では全島を代表する王は存在しなかったと語っている。
(7)このオーシャン島編入についても、有人島であったにも拘わらず住民との合意なしに植民地化したのは、当時の国際法においても問題があるとの指摘がある(Weeramantry, C., 1992, Nauru. Oxford University Press, p.205.)。
(8)ナウル島のリン鉱石の埋蔵量は、F.Danvers Power による1901年の調査で4100万トンと推定されている。また『南拓誌』(南拓会1982年)によると、太平洋戦争勃発に伴い日本軍がナウルを占領した際には、埋蔵量1億トンと称された。
(9)前掲『新南方見聞録』62~63頁
(10)Weeramantry, 1992, p.107.
(11)ナウル島のリン鉱石と、国際市場で自由に売買されたマカテア島のリン鉱石の輸出価格(FOB価格)を比べると、1920代から1960年代まで、平均してナウル島のリン鉱石はマカテア島のそれの4~6割程度の価格となっている(Weeramantry, 1992, Table 16.2.)。
(12)ナウル島、オーシャン島、マカテア島、アンガウル島を指す。
(13)前掲『南拓誌』132頁
(14)前掲『南拓誌』135頁
(15)1984, Pacific Islands Year Book 15th Edition. Pacific Publications, p.161.
(16)Weeramantry, 1992, p.23.
(17)たとえば1941年のナウル島住民は合計3517人だったが、そのうちナウル人は1827人にすぎなかった。
(18)1927年に委任統治政府は酋長会議(Counsil of Chiefs)を設置していたが、「諮問機関」とされ、実際の権限はほとんど与えられていなかった。
(19)ナウルはその財務資料を公開していないが、1996年に筆者が現地調査を行った際に地元政府筋が語ったところによると、1988年に約16億豪ドルあったナウル信託基金(将来のための積み立て金)は、運用の失敗と配当の支払いによって1996年には4億豪ドルまで減少し、そのほとんどは不動産資産であるとのこと。ナウルの経済状況については、小川和美「南太平洋島嶼国の財政事情」(日本ミクロネシア協会『ミクロネシア』99号)参照。
(20)教育・人材面でも、地元史家のB・R・ナガヤ氏は筆者に対し、「植民地時代は独立の希望に燃えて若者たちはこぞって勉強したものだが、独立後は働かなくても食べていけるようになったため、ナウル人の学習意欲が低下して人材が育っていない」との問題点を指摘している。
(21)バナバの歴史と現状については、小川和美「バナバの人々」(日本ミクロネシア協会『ミクロネシア』87号)参照。
(22)Talu, A.(et al.), 1979, Kiribati Aspects of History. University of the South Pacific, pp.77-79.
(23)太平洋戦争時に日本軍によって強制移住させられた際の移住先の一つだったコスラエ島にバナバ人が上陸した時の様子について、コスラエ島のルル・トゥレアクン氏は筆者に対し、「バナバ人たちは自転車やミシンを持っていて、なんて物持ちなんだろうとみんなで目を丸くした」と語っている。
(24)Maude, H.C.&H.E., 1994, the Book of Banaba. University of the South Pacific, P.82.
(25)Talu(et al.), 1979, pp.76-77.
(26)バナバ島における戦時中の日本軍の動きについては、西野照太郎「オーシャン島の日本海軍」(太平洋学会『太平洋学会誌』第31号)及び奈良賀男「われらポツダム戦争を戦えり」(同第36号)参照。なお、終戦時まで労働力として島に残されていた周辺諸島出身の出稼ぎ労働者たち約100から200名は、戦後日本軍によって全員殺害(一名奇跡的に命を留めた)された。
(27)従って、キリバス議会においてバナバ人は、バナバ島議席とランビ代表議席の2議席を有している。
(28)The people and Clans of Angaur State, 1995, Petition to the Ministry of Foreign Affairs Government of Japan.
(29)印東道子・山口洋兒「日本統治時代のファイス島」『北海道東海大学紀要人文社会科学系第9号』43頁 1996年((社)日本ミクロネシア協会オセアニア研究所主任研究員、日本女子大学非常勤講師)