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130-ミクロネシア紀行「旅してみれば-美しのパラオ」

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ミクロネシア紀行

旅してみれば-美しのパラオ

<21>ペリリュー ― 戦争で変わった島 ―

上原伸一(うえはら しんいち)


 久しぶりの「旅してみれば-美しのパラオ」である。前回2004年にカヤンゲル島の紹介をしてからだいぶ時が経っている。実は、私が回ったパラオは、後はペリリュー島とアンガウル島で終わりである。この2つの島を紹介したら、一通り私が旅したパラオは紹介したことになる。ところが、ペリリュー島を旅したのは1991年11月のことである。もう1度新しい状態を確認してから報告をしようと考えていたが、ここ数年忙しくてなかなかパラオに行くことができない。たまに行ってもペリリューまで足を延ばすのは難しい。ダイビングで行くことはあっても島の中までは入り込んでいかないので最新の状況の報告はできない。2004年の7月にダイビングで行った時に、島の北側にあるダイブショップによったが、昔に比べて周囲の感じが大分きれいでモダンになっているのに驚いたくらいである。逆に、古きペリリューの雰囲気を伝えることはできるかもしれない。
 とはいっても、ペリリューは戦争によって大きく変わってしまった島である。パラオは南洋庁の本庁所在地であり、政治の中心地であった。また、第2次世界大戦末期1944年2月には連合艦隊司令部がトラックからパラオに移り、4月にはコロール周辺も米軍の爆撃を受け、旗艦武蔵は被弾して修理のために内地に帰還した。コロールやバベルダオブ本島でも度重なる爆撃は受けたが本格的な侵攻を受けることはなかった。パラオで上陸侵攻作戦が行われたのは、ペリリューとアンガウルの2島だけであった。両島とも米軍の激しい攻撃を受け玉砕の島となった。とりわけペリリューでは1944年9月15日に始まった戦闘は11月24日に終結するまで2ヵ月以上にわたった。それまでにサイパン、グアム、テニアンの占領を終えていた米軍は、圧倒的に優勢な軍事力で島を囲み、早期終結を予想していた。ところが、島の西側中央付近に位置する高台に築いた洞窟陣地に依拠した日本軍の抵抗に苦しむことになり、自軍の犠牲を少なくするために爆撃、艦砲射撃を徹底して行い、これにより島の形が変わってしまったと言われている。さらに、洞窟に閉じこもる日本兵に対し、火炎放射器を多用し外側から焼き殺して洞窟の口を埋め込んだ。このため今でも洞窟内には多数の遺骨が残っていると言われている。1万人強の日本軍はその殆どが戦死、米軍も1万人近い死傷者を出し、太平洋戦争史上最悪の戦闘とアメリカでは言われている。
 島の人達は、戦闘前に全員がコロールやバベルダオブ本島に疎開させられており、島民の人的被害はなかった。しかし、激しい爆撃、艦砲射撃により島は壊滅的な打撃を受け、それまでとは全く違ったものになってしまった。戦後、島に戻った島民は土地の境が全く分からなくなるほど変わり果てた島の姿と累々とする日本兵の遺骸にぼう然としたという。日本兵の遺骸を集めて、手厚く葬ったのは島民であった。戦闘50周年に当たる1994年は、パラオ独立の年であった。10月1日の独立を前に、太平洋を挟んだ日米とその中間にあるパラオが手を取り合って平和に貢献する意思を示すために、ペリリュー戦闘50周年記念のシンポジウムと、ペリリューにおける記念式典が行われた。ペリリューの記念式典には日米の生き残り兵が参加し、昔の戦闘を乗り越えて平和への誓いを新たにした。これら式典は、新生パラオ誕生に当たって、パラオの人々が示した平和への強い意思である。
 ペリリューの案内をするには、どうしても戦争のことを事前に説明せざるを得ない。ペリリューの旅の殆どは戦跡と慰霊碑巡りである。未だに放置されている遺骨に出会いさえする。と共に、激しい戦闘により島の生活は一変してしまった。今我々が目にするのは、のどかで豊かな南の島のかつての生活とは違ったものである。戦後60年余を経ても昔の暮らしぶりは戻っていない。戦後、日本人の慰霊団を積極的に支援したペリリューの女性酋長トヨミさん(故人)によれば、戦前には島に5つの村があり20のクランが暮らしていたという。実り豊かな島で、クランがしっかりと伝統的なシステムを守って一緒に暮らしていたら、島の人口が1万人でも暮らしていくことができたと語っていた。現在、島の集落は北の州政府事務所周辺1カ所だけである。これ以外の場所は、戦闘で住めない状態になっていたということであろう。
 それでは、いよいよペリリューの旅に出かけよう。ペリリューはダイビングスポットとしてパラオでもナンバーワンのポイントといわれている。流れが強く難しいが、運が良ければ次々と押し寄せる大物たちを楽しめるポイントである。筆者も、南端のペリリューコーナーで、マーリン(カジキ)に2度遭遇している。筆者の場合、ダイビングの合間にペリリュー観光をするという形をとった。朝早くコロールを出てスピードボートで約1時間半、ペリリューコーナーでダイビングをしてサウスドックに入ったのが10時30分。迎えの車に乗り込んで島内ツアーの開始である。
 まずは最南端の平和記念公園に。目の前にアンガウル島を望む南端の岬部分が整備され、公園になっている。そこには、西太平洋戦没者の碑が建てられている。慰霊をして回りを見渡すと実にきれいな公園である。先端の岩がごろごろしている部分に、ブローホールと呼ばれる場所がある。一つの穴からは風が吹き上げてくる。もう一つからは、波に合わせて潮が噴き上げられる。満潮時にはかなりの高さになる。この岩場の先は磯釣りの名所ともなっており、時には大物狙いの釣り人に出会う。釣りをしているその先の海がまさにペリリューコーナーであり、魚たちと共にダイバーが潜りを楽しんでいる。晴れ渡った青空を見ていると、この様な美しい場所で凄絶な戦闘が繰り広げられたことが信じられない。このちょっと北側には美しいオレンジビーチが広がっている。遠浅で泳ぐには適していないがペリリューで最も長いビーチで大変美しく、ピクニックの場所となっている。ここが米軍の最初の上陸地点であった。米兵の血で白い砂浜がオレンジに染まったためオレンジビーチと呼ばれている。現在の風景からは想像できないことで、歴史を示す名前ではあっても、何とも言えない違和感を抱いてしまう。オレンジビーチのちょっと奥にまっすぐ伸びている広い路がペリリュー空港の滑走路である。かつての日本軍の滑走路であり、占領後米軍も使用していた。その後、滑走路は整備され誘導灯も付けられている。かつてはコロールからセスナの定期便が飛んでいたが、事故があり、現在では不定期に飛んでいるだけである。1991年当時は今のように整備がされていなかったが、しっかりした滑走路であり、プロペラ機であれば問題なく使えるものであった。
 滑走路の西側には日本軍の戦車が残っている。95式戦車と呼ばれたもので、極めて軽装備な小型戦車である。ここから北西の方に残っている米軍のシャーマン型戦車と比べると雲泥の差である。これだけの装備の差を目の当たりにすると太平洋戦争当時に於ける日米の軍事力の差をしみじみと感じさせられる。
 日本軍の戦車が放置されている場所の近くに、日本軍司令部跡がある。コンクリートの頑丈な造りで、ものすごい爆撃や射撃にさらされた跡が良く分かる。屋根や壁の多くが打ち破られているが、柱と外郭はしっかりと残っている。さらに北側山の方に登っていくと日本軍の司令所跡やそれに続く洞窟陣地や高射砲が残っている。洞窟陣地は長く続いて、中でかなり繋がっていたということである。この入り口までくると、何とも言えない重苦しい空気を感じる。ペリリューは、コロールよりも南にあり、なおかつ島が小さくて山も高くないのでコロールに比べて相当に暑い。車で回りながら戦跡を見て回っているだけで汗が噴き出してくる。かつて、まともに食糧どころか水もない環境で、蒸し暑い洞窟の中に閉じこもり、1日でも長く抵抗するために多数の日本兵が頑張っていた。最近は、ドキュメンタリー映画などで特攻隊のことが取り上げられ、隊員の心境が明らかにされている。ペリリューの洞窟で籠城戦を行わざるを得なかった兵士たちはどれほど苦しかっただろうと思わずにはいられない。絶対に戦死する、それでも1日でも長く生きて抵抗しなければならない。しかも、酷暑にさいなまれ、食糧どころか水もまともにない中で全滅を遅らせるためだけに生き続けなければならなかった兵士たちはどのような心境であったのだろうか。洞窟の奥から響いてくる過去の魂の残響で心と体が重くなる。
 洞窟の上側に当たる高台の1番上まで行くことができる。英語では、ブルーリッジマウンテンノーズ、日本語では大山である。ここがペリリューで最高峰の場所になる。ほぼ頂上近くにアメリカの慰霊碑が建っている。その少し下の方に日本の慰霊碑も建っている。この大山は、日本軍守備隊長中川大佐が自決した場所でもある。大山の頂に立つと、ペリリューの周囲が見渡せる。緑のジャングルと先に広がる青い海、それをつなぐマングローブ林は海洋生物のいわばゆりかごである。この目の前の景色と過去の事実の間の落差にクラクラとする想いを抱くのは筆者だけであろうか。亡くなったトヨミさんが繰り返し言っていた「戦争を繰り返してはいけない。平和が何よりも大事。あの悲惨な事は2度とあってはならない。」という言葉が思い出される。
 高台の麓東側にはペリリュー神社があった。かつての神社は取り払われたがその跡に小さな社(やしろ)が建てられている。
 高台を降りて北西にまっすぐ車を進めると集落にぶつかる。いかにも南の島らしい一種けだるさの中に家と庭と洗濯物が見えてくる。家と家との間はゆったりと離れており、それぞれは緑に囲まれている。外に出ている人は少なく、たまにいる人も木陰に入っている。まさにのどかで平和な風景である。筆者が訪れたときは、子供たちが独楽回しをしていた。全く日本式の独楽で、恐らくは日本統治時代に伝えられたものだろう。
 現在は、集落はこの1つしかなく、人々はこの辺にまとまって住んでいる。中心付近に州政府事務所がある。日本の県庁や市役所と違っていたって簡素なもので、時として平日の昼間でも誰もいないこともある。1991年には、当時のシシオ知事の話をうかがう機会を得た。
 知事の話によれば、ペリリューの人は全部で1000人位で、島に住んでいる人は600人程度ということであった。この数字は現在でもほぼ変わっていない。「産業はまず漁業、続いて観光」ということであった。とれた魚をコロールに運ぶため集落のすぐ北側にある港ノース・ドックは近年整備がされている。「農業は?」という質問に対し、シシオ知事は、「ここは暑すぎて農業に適さない。元々燐鉱石がとれるので、土地は肥えているが、ともかく暑くて農作業ができない。漁民も、昼間は太陽光線が強すぎるため、昼間に漁をする者は少ない」と答えていた。ペリリューに限らず、パラオでは通常、小型のボートによる漁は夜間に行われている。漁師さんによれば、「夜の方が涼しくて作業もしやすいし、魚もよく取れる」ということである。
 宿泊施設としては、昔からある民宿の他に、2軒有るダイビングショップ(老舗のペリリュー・ダイバーズと日本系のマーメル・ダイバーズ)の経営するホテルがある。ダイビングショップ系のホテルは集落から少し離れた海の脇にあり、それなりの施設を備えている。一方、民宿は集落の中心部にあり、昔ながらの島ののんびりした雰囲気を一層楽しむことができる。
 集落を出て、西側に回るとスイミングホールがある。道路わきにポッカリと穴が開いていて、天然のプールになっている。底で海とつながっているようで、海水が混じっている。水面までは3メートル程の高さがあり、梯子がかけられているが、地元の人たちは飛び込んで楽しんでいる。直径は10メートル程度で円形をしている。水の深さは2メートル強で、まっすぐ足から飛び込むと丁度足先が底に着くか着かないかぐらいである。古い鍾乳洞であり、水は澄み切っているわけではないが、足元は見えるぐらいの透明度はあり中に入ると気持ちが良い。島の人にとって格好の遊び場であり、涼み場である。観光客にとっても暑い島巡りでかいた汗を流すには最高の天然プールである。半ズボンのまま飛び込んで自然に乾くのを待つのがパラオ風である。
 スイミングホールから南へ向かうとハネムーンビーチに出る。キャンプ場があり、その前の海は海水浴やサーフィンも楽しむことができる。休日には島の人達が集まってバーベキューをしている。これで南端に近いサウスドックまで戻ればツアーは終わりである。サウスドックの反対側(島の東側)にブラッディ・ビーチと呼ばれる美しい白砂のビーチがある。まさに白く輝く美しい砂浜が海にまで続いている。この美しい海岸も米軍の上陸地点のひとつで、砂浜が米軍の血でまみれたところから今の名前がついている。ペリリューのツアーは、結局悲惨な戦闘の跡を巡る旅である。
 筆者は、ダイビングの合間に3時間半をかけて一回りした。コロールから観光ツアーをする人は、現在は定期航空便がないので、スピードボートで行くことになる。コロールから一時間強でノースドックに到着する。ここからは車で案内してもらう。飲み物と弁当はツアー会社が用意してくれる。動きやすく濡れても大丈夫な格好で参加すれば良い。暑いので汗をふくのにタオルは必需品であろう。ただ、雨が降ると急に気温が下がることがあるので、ウインドブレーカーのようなものを用心して用意しておくことをお勧めする。特に、行き帰りの船で雨にあうと相当に寒い思いをすることがある。日帰りの場合、現地での滞在時間はおおよそ4時間位が標準である。島で宿泊する人は、コロールからの定期船に乗ってみるのも一興であろう。
 島の北側、湾が大きく入り込んでいる部分はマングローブに覆われていて、様々な海洋生物を育てる揺りかごとなっている。それと共に、多数のワニの生息地となっている。元々はパラオにはワニは居なかったが、何かに紛れてオーストラリアのクロコダイルが入って来たとのことである。昔は、バベルダオブ本島でも数多く生息しており、日本人開拓民の人達は、川で日常的にワニを見たという。今ではバベルダオブでは殆ど見かけない。このペリリューでは、豊かなマングローブに守られてまだまだワニが生息している。かつて筆者は、パラオのワニ狩り名人に同行して、ペリリューで夜間のワニ狩りの取材をしたことがある。現在では、ワシントン条約の関係で基本的にワニ狩りは禁止されており体験することはできない。1メートルを超えるワニと人間の格闘は、都会に生活する筆者にとって想像すらできない体験であった。機会があれば、本誌でその様子をご紹介しようと考えている。
-続く-

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