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135-マーシャル諸島における政権交代と政権内の対立構造

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マーシャル諸島における政権交代と政権内の対立構造
~トメイン政権からザダカイア政権へ~

研究員 黒崎岳大(くろさき たけひろ)

1.はじめに                  
ザダカイア大統領

ザダカイア大統領

 2009年10月、マーシャル諸島で初めて大統領に対する不信任案が可決され、リトクワ・トメイン(Litokwa Tomeing)大統領が辞職した。その翌週開催された全国会議員による大統領選出投票では、大方の予想に反し、トメイン大統領を支持してきた与党・統一民主党(United Democratic Party: UDP)が担ぎ出したチューレーラン・ザダカイア(Jurelang Zedkaia)国会議長が、今回の不信任案でトメイン大統領を辞職に追い込んだ我が祖国党(Alin kain Ad: AKA)が推薦したケサイ・ノート(Kessai Note)元大統領を17票対15票で破り、第5代大統領に選出された。
 新大統領選出を巡る一週間の動きからもわかるように、今日のマーシャル諸島における政治の動向は、2007年の総選挙において当時のノート大統領率いるUDPが議会で過半数をとれず、議会内での多数派工作が行われて以降、今回のザダカイア大統領選出に至るまで、不透明な要素が多く、一見すると、途上国にありがちな権力をめぐるルールなき戦いの様相を呈しているように思われる。しかしながら、一歩政権内部に踏み込んで、重要課題をめぐる政策決定における政府内の構造を詳細に分析すると、マーシャルの政治が民主化に向けて動いていく過程において、重要な出来事として捉えることができる。

 本稿では、マーシャル諸島の今日の政治動向を検討しながら、現在のマーシャル政治の中で見いだせる対立構造について明らかにしていく。具体的には、前半では、ノート大統領の下での政権評価となった2007年の総選挙以降のマーシャル諸島の政権運営を巡る流れを分析していく。特に、本稿において分析対象の大部分を占めるトメイン大統領の政権に関しては、政権前期のAKAとの連立政権下での対米強硬外交から、政権後期のUDPとの連立政権下での対米現実外交へとシフトしていくことになった原因について、米国側の対応面とマーシャル政権内の主導権争いの面から検討していく。後半では、政権運営の流れの分析の結果から見い出した、マーシャル国内政治における二つの対立軸、政治システム上の対立および地域内の対立を明らかにしながら、新たに成立したザダカイア政権の今後の動向について考察していく。


2.マーシャル諸島の政権交代の流れ

(1)ノート政権の政治運営と2007年の総選挙結果
 1999年11月に行われた総選挙で、ケサイ・ノート国会議長は、民主派グループとの間で統一民主党を結成し、建国以来与党を続けてきた第2代大統領イマタ・カブア(Imata Kabua)率いる伝統的首長派(コーカス・グループ、またはイマタ・カブア派)を破り、翌年1月に大統領に選出され、政権交代を成し遂げた。
 ノート大統領は、「透明性・説明責任・良い統治」の実施を選挙公約とし、政治の民主化・政治の刷新を唱えたことにより、国民から強い支持を得た。内政では、汚職と賄賂による放漫財政を担っていた主要閣僚が落選をしたことを受け政策の大転換を進め、予算の削減および公共事業の見直し等、大統領自らが政策の実施に努めた。特にアマタ・カブア(Amata Kabua)大統領以来長年に亘り政権を担ってきたベテラン官僚を引退させ、比較的若い官僚を高官に抜擢するなど行政府の刷新に努めた。外交では、2001年に終了することになっていた米国との間で締結した自由連合協定に基づく財政支援(コンパクト・マネー)の改定交渉を開始し、2004年には改定協定を締結し、2023年までの継続支援を獲得することに成功した。こうした内政・外交面での積極的な取り組みが評価され、2003年に行われた総選挙では与党議席の拡大に成功し、議会内における支持基盤の安定を手に入れた(1)。
 しかしながら、2004年後半になるとノート政権下での政策の負の面が目立つようになっていく。一つは、改定コンパクト交渉において継続審議となっていた二つの議題、すなわちクワジェリン米軍基地問題およびビキニ環礁等で実施された米国による核実験に対する補償問題における米国との外交交渉の行方に関してである。
 クワジェリン環礁の南部にあるクワジェリン島の米軍基地使用については、コンパクト協定において1986年より30年間という期限が設定されていた。改定交渉によって米国国務省とマーシャル政府との間で50年間の延長および両国の合意に基づき更に20年間の延長を可能とすることが合意された。しかしながら、この改定協議は、土地借地代の金額などが原因で、米国政府とクワジェリン基地に土地の権利を持つ伝統的首長グループとの間では合意に至らず、継続審議となった。一方、1946~58年にかけて米軍により行われた核実験の被害を被ったとされる4つの環礁(ビキニ・ロンゲラップ・エヌエタック・ウトリック)政府は、1986年のコンパクト協定交渉で被害に対する最終的な補償を獲得したものの、その後米国のNGOグループや研究者たちから提出された新たなデータをもとに、米国政府に対し核実験被害に対する更なる補償金の増額を求める請求を行った。
 これらの要求に対して、米国政府の窓口である国務省およびエネルギー省は「すでに解決済み」の問題として取り合わないことを決定し、むしろクワジェリン基地問題に関してはマーシャル側の調整が付いていないという理由から、クワジェリン基地関連の予算の執行を拒否した。これに対して、ノート政権は国家の財政基盤であるコンパクト協定内での財政支援の円滑な実施を優先させる立場から、米国政府を非難する強い姿勢を示さなかったため、クワジェリン環礁地方政府や核被害問題を抱える地方政府の島民からは弱腰外交として非難された。
 一方、内政面においては、急激な緊縮財政の結果生じた国内経済の停滞が問題となっていった。とりわけ、前政権まで政府の予算で潤っていた国内の建設業界や小売業界は、予算の減少および公務員に対する給与の削減のあおりを受け経営が悪化し、新たに台頭してきた台湾や中国等の外国資本勢力にスーパーマーケットや工場を売却するなどの事例が頻発した(2)。また2007年4月に世界銀行より発表された報告書では、マーシャルは大洋州島嶼国の中でも比較的潤沢な経済支援を受けているにもかかわらず、教育や保健衛生面での指数に改善がみられず、また失業率が35%と依然として高いことが指摘され、政府に対して米国を中心としたドナー国への依存体制の脱却と非効率的な政権運営の改善が求められた(3)。
 以上の米国との交渉の行き詰まりおよび国内経済の停滞は、次第にノート大統領に対する非難につながっていく。この機会を狙っていた野党AKAは、2007年11月の総選挙において政権交代を成功させるために、水面下で多数派工作を始める。とりわけUDPにおいてノート大統領に批判的であったトメイン国会議長のグループを引き入れるため、AKAの中心的立場にあったトニー・デブルム(Tony deBrum)元財務大臣は、トメイン国会議長との間で、次期総選挙で同議長グループがUDPから離脱することと引き替えに、同議長を大統領候補にすることで合意した。この結果、トメイン・グループ選挙の告示直後にUDPから離脱することを宣言し、2007年の総選挙はノート大統領率いるUDPとAKAとトメイン・グループによって結成された統一会派「統一国民党」(United People’s Party :UPP)による激戦となった。
 11月19日に実施された総選挙では、国内各地において投票をめぐる混乱が起き、開票作業が大幅に遅れ、12月10日にようやく選挙管理委員会より最終非公式結果が発表された。しかしながら、この時点で、UDP・UPP両陣営とも単独では過半数議席を獲得できず、無所属議員5人の取り込みが大統領選出投票の直前まで行われた。

 2008年1月7日の総選挙後初の議会において、大統領および国会議長・副議長の選出選挙が行われた。先に行われた国会議長および副議長の選挙では、国会議長にはUPPが支持するチューレーラン・ザダカイアが選出された(18票対15票)。一方で、副議長にはUDPが支持するアリック・アリック(Alik Alik)が選出された(17票対16票)。この結果、UDPとUPP双方とも単独過半数を獲得できていない状況が明らかとなり、大統領選出の行方は、無所属議員5名の選択に委ねられた。UDP側はノート大統領を、UPP側はリトクワ・トメイン国会議長をそれぞれ推薦して行われた大統領選出選挙は、18票対15票でトメイン議長側の勝利となり、トメインが第4代大統領に就任した。トメイン側の勝利の要因としては、無所属議員の多くが景気回復を公約としており、ノート政権の経済政策を非難していたことに加え、無所属議員に対して支持の見返りに大臣任命を約束する合意が効を奏したことが挙げられる。

(2)前期トメイン政権~AKAとの連立政権とクワジェリン基地問題
トメイン大統領

トメイン大統領

 第4代大統領に就任したリトクワ・トメインは、マーシャ ル国内のラタック列島北部のウォッジェ環礁出身で、「シニオリティ」と呼ばれる、ノート前大統領およびルービン・ザカラス(Ruben Zachkras)前国会副議長と並ぶ数少ない建国以来の連続当選議員である。
 トメイン大統領は、自身は北部ラタック列島の伝統的首長(イロージ(Iroij))一族のメンバーであるものの、建国当初は、アマタ・カブア大統領の独断的な政治姿勢に対して批判的な態度を取り、野党「マーシャルの声」を率いて政治の民主化を進めるリーダー的存在であった。しかしながら、1991年の総選挙で、アマタ・カブア大統領と和解することで与党入りし、選挙後の改造内閣でラタック列島担当大臣に就任した。1999年の総選挙ではノート大統領と共にUDP結成に参加し、ノート政権では国会議長に選出された。
 トメイン大統領の政策については、組閣当初から二つのことが指摘されていた。一つは、外交における台湾から中国への外交関係の変更である。マーシャル諸島は1998年に中国から台湾に外交関係を変更したものの、トメイン大統領自身はマーシャルにおける「親中派」議員として知られており(4)、国会議長時代にはしばしばマカオを訪れ、中国高官と会談していると報道されていた(5)。このことから、トメイン政権になると再び台湾との国交を断絶し、中国と外交関係を締結するのではないかと考えられていた(6)。
 こうした動きに対して、外交関係を保持しようとする台湾政府は、トメイン大統領の就任に際して朱玉鳳常務次長を特使に派遣し、引き続きマーシャル政府への経済協力、とりわけ、8月以来機材故障により運行がストップしていた国内航空のマーシャル航空に対して航空機の修理費用を提供することを約束した(7)。これを受けて、マーシャル政府側も1月29日にトメイン大統領の就任後すぐに訪台し、呂台湾副総統との第1回会談を行い、台湾との外交関係の維持を約束、台湾との関係は将来にわたって続くことになると意思表明した(8)。
クワジェリン島(米軍基地が設置され、ミサイル実験が実施されており、米軍関係者が居住。マーシャル人の居住は許可されていない。)

クワジェリン島(米軍基地が設置され、ミサイル実験が実施されており、米軍関係者が居住。マーシャル人の居住は許可されていない。)

 もうひとつは、トメイン政権は実質上イマタ・カブア元大統領およびトニー・デブルム議員による傀儡政権になるのではないかと言うことである。特に外務大臣に就任したデブルムは、1986年に米国と自由連合協定を締結した際、大統領から全権を任された交渉官として米国政府と交渉を行ってきた自信と実績があったことから、トメイン政権においても外交は当然のこと、内政面にも積極的に関与していく意欲を示していた。一方トメイン大統領自身も、行政経験に乏しかったことから、当初は外交分野に関してはデブルム外相に任せる姿勢を示していた。
 しかしながら、就任後半年が過ぎるとトメイン大統領とデブルム外相の関係が悪化し始める。トメイン大統領の就任で進展が期待されたクワジェリン基地問題であったが、米国側は新政権に対して新たな譲歩案を示すことはなく、むしろ新政権に対しては強硬な姿勢を貫き通すこととなった。クワジェリン基地に伴う土地の使用料の支払いについて、マーシャル側が交渉を進めないことから土地使用料に加え、クワジェリン環礁の住民のほとんどが居住するイバイ島の開発事業についても停止する決定をした。またクワジェリン基地の再編成構想も取り上げられ、2012年までにクワジェリン基地で働くマーシャル人被雇用者を30%カットすると発表した。こうした米国側の対応を、デブルム外相は公然と非難し、米国が土地借地権の増額を求めるクワジェリン島の土地所有者の要求を受け入れなければ、2016年以降のクワジェリン基地の使用を差し止めると主張した。
 さらに、石油価格の上昇に伴うエネルギー問題がトメイン政権の第一の公約である景気回復政策に対して足かせとなった。石油価格の上昇への対策として大統領に就任した1月以降3度に亘り電気料金の値上げを実施したものの効果がなく、電力公社の赤字額が国家予算の20%にまで達した。こうした状況に対して、トメイン大統領は7月に経済非常事態宣言を発表し、財務省に対しては石油輸入のための財源確保を、また外務省に対しては各国からの経済支援を求めるよう要請した。これに対して、デブルム外相は、エネルギー問題はクワジェリン基地問題を有利に進展させようとする米国政府側の戦略であると主張し、むしろクワジェリンの地主による集会では、大統領が米国に対して弱腰な姿勢を示していると非難した。
 この結果、トメイン大統領は、デブルム外相およびその背後にいるAKAグループとの間に次第に距離をおくようになっていき、10月以降大統領と外相との対立関係が頻繁に報道を通じて伝えられるようになった。野党UDP側は、10月14日、核実験被災者に対する保健サービスをめぐる対米関係の悪化、前政権が認めた首都マジュロの小学校建設プロジェクトの拒否等の理由により、トメイン大統領に対する不信任案を国会に提出した(9)。このときはUDP側が過半数を獲得する算段が付かなかったため、17日に国会に対して提案を引き下げる手続きを行ったものの、一時はデブルム外務大臣が仲介に入りAKAとUDPが協力して不信任案を可決させるのではないかという憶測が飛び交うなど、国民の間にもトメイン大統領とAKAの関係が明らかに悪化していることが印象づけられた。
 デブルム外相に代わり政府内で台頭してきたのが、フレッド・ペドロ(Fred Pedro)官房副長官である。ペドロ官房副長官は、ツバル出身の「お抱え外国人官僚」であり、アマタ・カブア政権では、大統領の側近として政策立案を請け負っていた。その後、クワジェリン基地問題をめぐりイマタ・カブア大統領と対立して政府から離れていたものの、自らの行政経験の乏しさを補いたいと考えたトメイン大統領自らが官房副長官就任を要請した。大統領からの信頼も厚く、外遊には必ず同行することから、各国との事務方協議を常に担うことになった。また大統領に対して若手の有能な官僚を登用するように大統領に進言し、大統領もこれを受け入れて各省で20~30代の次官が誕生していった(10)。この結果、ペドロ副長官の政府内での影響力が急激に高まっていった。
 とりわけ、米国との関係については明らかな政策転換がみられた。すなわちクワジェリン基地問題における強硬派の支援を受けて成立したトメイン政権であったが、米国との不必要な対立関係は、現状のコンパクト・マネーの拠出に対しても悪影響を与えかねないと考えていたペドロ副長官は、トメイン大統領に対して米国との現実的な交渉を進めるように進言した。こうした大統領の政策転換に対して、デブルム外相は大統領による側近政治の弊害であると非難した。
 以上のように、トメイン政権内でデブルム外相とペドロ副長官の対立関係が高まる中、2009年になると、就任後一年を過ぎて次第に大統領としての自信をつけていったトメイン大統領は、2009年中にクワジェリン基地問題を決着させなくてはならないという期限が迫っていたこともあり(11)、国家財政の基盤となる米国からの経済支援の円滑な享受を進めることを重視した結果、2月にクワジェリン基地交渉強硬派であったデブルム外相を解任する決断を下した。
 デブルム外相は、トメイン大統領による自らの解任を不服として、旧AKAグループでトメイン大統領の内閣に対する不信任案の提出を決めた。AKAグループ側の思惑では、半年前にトメイン大統領に対して不信任案を国会に提出していた経緯もあったことから、野党UDPも今回の不信任案に賛成し可決され、トメイン大統領は辞職することになるものと考えていた。
 ところが、トメイン大統領は政権の維持をめぐり、水面下でUDP側と交渉を進めていた。特にノート大統領時代に国会副議長であったルービン・ザカラス議員との間で、次期政権の枠組みをめぐって交渉が進展しており、AKAが提出してくる不信任案に対してUDPと協力して否決する代わりに、すぐに内閣改造を行いAKA側議員に代わりUDP側の議員を入閣させることを約束した。

 以上の密約が交わされた中で、デブルム元外相率いる旧AKA7名の連名により提出された不信任案は、2009年4月18日に投票が行われ18票対14票で否決された。これを受けて23日に内閣改造が行われ、不信任案に賛成した現職4閣僚は解任され、UDPから4人が任命された。

(3)後期トメイン政権からザダカイア政権樹立へ
 不信任案否決後の内閣改造は、大統領の交代は伴わなかったものの、実際にはマーシャル議会内で与野党勢力が逆転したことから、実質的には「政権交代」が行われたとみることもできるだろう。すなわち、内政面ではイマタ・カブアを中心とした旧AKA勢力が力を持っていた政権から、UDPが再び与党に復帰することに成功したのであり、外交面ではクワジェリン問題をめぐり米国政府に対して強硬姿勢を守る態度から現実的な対応で交渉を進める姿勢へと転換した。
 その後トメイン大統領は、5月に北海道で開催された第5回太平洋・島サミットや、8月に豪州ケアンズで開催された太平洋諸島フォーラム(PIF)総会に参加するなど積極的な外交活動を進めていった。これに対して、AKA側は再び不信任案を提出するため、UDP側の分断を画策する。その標的となったのがノート前大統領であった。ノート前大統領はUDPの一員として先の不信任案には反対票を投じたものの、前回の総選挙でトメイン大統領が選挙公示後に自らを裏切ったことに対して不満を持っていた。デブルム前外相は、水面下でノート前大統領と協議し、ノート前大統領が不信任案で賛成にまわり、可決した場合には、次期大統領候補としてノート大統領を支援すると約束した。ノート前大統領は、右提案を受け入れ、自らに近い2~3名の議員と共にUDPから離脱することとなった。この結果、10月21に再び旧AKAおよびノート前大統領が署名した不信任案が国会に提出された。採決の結果は17票対16票で可決、トメイン大統領の内閣は総辞職をすることになり、次期大統領が決定するまでの間は、ルービン・ザカラス大統領補佐大臣が暫定大統領に就任した。
 この結果を受け、国会議員による大統領選出選挙ではAKAの支援を受けたノート前大統領が返り咲く公算が強いとみられていた。ところが、10月26日の大統領選出選挙の直前になり、トメイン大統領およびUDP陣営はチューレーラン・ザダカイア国会議長を大統領候補として擁立することを発表した。
 ザダカイア議長はマジュロの伝統的大首長であり、アマタ・カブア大統領の母系の従兄弟の息子に当たり、マジュロ国内の70%の土地の権利を掌握している(12)。マジュロ地方政府議員を経て、1991年の国会議員選挙でアマタ・カブア大統領の要請でマジュロ選挙区から立候補し、以後5回に亘り当選してきた。ノート政権前半では副議長を務めていたが、自由連合協定の調印をめぐり、親族関係にあるイマタ・カブア元大統領やジーベ・カブア元資源開発大臣(当時AKA代表・現在京マーシャル大使)を支持するため、副議長職を辞職した。その後トメイン政権下で国会議長に就任したものの、常に親戚でもあったイマタ・カブアのグループと行動を共にしていたため、トメイン大統領への内閣不信任決議においても賛成票を投じた。

 しかしながら、UDP、とりわけマジュロ選出議員が中心となり、ザダカイア国会議長と水面下で接触し、分裂した国内政治を安定させるために同議長の伝統的権威が必要であるという説得を行った。当初ザダカイア議長は、閣僚経験がなくトメイン前大統領以上に行政経験が乏しいことから大統領就任を拒んだものの、自分の就任で国会が正常化することの重要性を認識し、トメイン大統領時代の閣僚を引き継ぐことを条件に大統領への就任を了承した。その結果、ザダカイア議長の従兄弟に当たるカイボケ・カブア議員らの支持もあり、ザダカイア議長が17票対15票でノート前大統領を破り第5代大統領に就任した。ザダカイア大統領も11月2日に行った就任後の会見で、ここ1年間に3回も大統領に対する不信任案が提出された議会の現状は異常でも、自分の仕事は国会内の不必要に高まった議会内の対立構造を解消し、政権運営の安定と国内の経済発展を指導していくことであると主張している(13)。

3.考察~マーシャル諸島現代政治史におけるトメイン政権の位置づけ

 以上、2007年の総選挙以降のマーシャル政治の動向を受け、本章ではまず1年9ヵ月に亘り政権を担ってきたトメイン大統領の政治スタイルを分析し、これまでの3人の大統領と比較しながら、マーシャル現代政治史における位置づけについて考察していきたい。
 過去の3代の大統領を比較したとき、政治姿勢やスタイルの面からその性格上の相違を以下のように分類することができる。すなわち、伝統的権威と近代民主政治システムの両方を利用しながら政権を長期安定させ国家建設を進めてきたアマタ・カブア政権(1979~96年)、伝統的権威の面を重んじながら前政権から引き継いだ閣僚に政策を委ねた集団的指導体制によるイマタ・カブア政権(1997~99年)、そして初めての平民出身大統領としてアマタ・カブア大統領が確立した大統領としての権権威を利用しながらトップダウンによる政権運営を進めたノート政権(2000~07年)である。
 アマタ・カブア政権下では与党が全議員の3分の2を占める安定政権であったのに対し、ノート政権以降はUDPとAKAが中心となった2大政党による接近状態が続いている(表2参照)。こうした中で、トメイン大統領が、自らの出自である伝統的権威をもとにした政権運営の復活か、それとも議会政治の下での民主主義による手続きを経た上での大統領の権限を利用した政権運営の実施か、といういずれの政治スタイルを取るかで注目された。
 当初は政治経験も乏しく、またイマタ・カブア元大統領やデブルム外相らの支援で選出されたという経緯もあったことから、伝統的首長出身者が多いAKAグループの意見を重視し、旧来の伝統的指導者層による集団指導体制による政権運営が復活するのではないかと予想された。ところが、トメイン大統領が実際に大統領に就任すると、自らが持っている大統領としての権威の大きさに気付き、次第にAKAグループと距離を置くようになり、最終的には政権から追放するまでに至った。
 実際に大統領が掌握している人事権や行政執行権は絶大であり、地方出身議員にとっては、大臣に任命されて公共事業の予算案策定に参加することのメリットは極めて大きく、議会内での多数派工作においても実際に人事権を利用してAKAから自らの支持グループへの引き入れに成功している(14)。トメイン大統領自身も大統領としての政治運営に自信を深める中で、大統領の地位に基づく権力の大きさを改めて認識し、伝統的指導者中心のAKAの支援を受けると言う受動的な態度から、大統領としての自分を支える議員を引っ張っていくという積極的な政権運営の姿勢を見せるようになっていった。
 このとき大統領主導の政策の実施に重要な役割を果たしたのが、大統領府において実際の政権運営を行っていた側近官僚たちである。特にマーシャルの場合は、周辺島嶼国や米国などからやってきて、政策立案に携わる「お抱え外国人官僚」の存在が大きい(15)。アマタ・カブア大統領自身も実際の予算作成や他国との協議を進めるために、ツバルやトンガ、あるいは米国出身者を積極的に官僚に登用している。こうした「お抱え外国人官僚」による影響力の増加に対して、伝統的指導者を中心とした議会から非難の声もあったものの、アマタ・カブア政権下では大統領自らの伝統的権威の下で打ち消されていた。しかし、その不満はイマタ・カブア大統領に向けて爆発し、多くの「お抱え外国人官僚」は政府から追われていった。ノート大統領の下では、「お抱え外国人官僚」への強い批判を懸念し、大統領府内に登用することを避けたが、その結果大統領自らが全ての政策の立案や実施に関与せざるをえなくなり、かえって負担増につながってしまうなど経済政策における対策の遅延にもつながった(16)。こうしたノート大統領の政権運営の不備を踏まえて、トメイン大統領はあえて「お抱え外国人官僚」を再登用し、大統領府の強化を図った。
 しかしながら、議会においては、依然として伝統的指導者出身議員も多く、予算案や法案の可決においては彼らの存在は無視できない。また土地所有などの伝統的な権利に関する問題に関しては、国会とは別に、12人の伝統的指導者層の代表からなる伝統的首長評議会(Council of Iroij)が定められており、大統領府が作成した法案を否決することも可能である。このように、今後大統領府を中心とした官僚体制と議会を中心とした伝統的指導者層の対立関係は一段と強まり、その調整役としての大統領の力量が求められるものと予想される。
マーシャル諸島地図(RMI15カ年計画報告書より抜粋)

マーシャル諸島地図(RMI15カ年計画報告書より抜粋)

 政治上の対立軸と同時に、今回の政権交代の動きの中で明らかになったこととして、国内における地域対立が上げられる。アマタ・カブア大統領は父親がクワジェリン環礁を含む国内西部に連なるラリック列島の伝統的大首長(イロージラプラプ)であり、また母親が国内東部に位置するラタック列島の中心的な環礁であるマジュロ環礁の伝統的大首長であったため、国内の両列島の伝統的権威を保持していたマーシャルの歴史上でも数少ないイロージラプラプであった。しかし、 第2代大統領のイマタ・カブアは、従兄弟のアマタ・カブアからラリック列島の伝統的大首長の称号のみを引き継ぎ、自らもクワジェリン選挙区出身議員であったため、クワジェリンの利益を最優先に考えがちであった。これに対してノート政権時代は、与党UDP議員の選挙区の殆どがラタック列島およびラリック列島南部地域であり、とりわけマジュロは5議席の内4名がUDP議員であったため、クワジェリン問題に偏向していた前政権の政策を改め、マジュロを含む国内全体の利益になる政治運営を進めた。この結果、マーシャル国内において、「AKA(イマタ・カブア派)=伝統的指導者層グループ=ラタック列島(クワジェリン)」および「UDP=民主派グループ=ラリック列島(マジュロ)」という政治上の対立の図式が作り上げられていった。こうした図式は、ラタック列島北部出身のトメイン大統領の出現によって一時は覆されると予想されたものの、トメイン大統領がUDPと連立政権を組んだことで、ラタック列島とラリック列島という地域対立が再び明確化されていき、さらに、AKAに属していた唯一のマジュロ選出議員であったザダカイアがUDPの支援で大統領となり、マジュロ選出の5人の議員はいずれも与党議員となったことから、選出した3人の議員がいずれも野党議員となったクワジェリン選挙区と明暗が分かれることとなった。

 以上のことから考えると、トメイン大統領は、ノート大統領が確立した大統領という民主政治の手続きに則って獲得した政治上の権威が旧来の伝統的な権威を凌駕することを確信させた政権であった、と位置づけることができるだろう。それと同時に国内政治をめぐって、大統領府内で政策の立案および実施を行う官僚体制と議会で勢力を根強く維持する伝統的指導者グループとの間にある政治システム上の対立と、クワジェリン基地問題を優先したいと考えるクワジェリン環礁を中心としたラリック列島とマーシャル全体の繁栄を重視する首都マジュロ環礁を中心としたラタック列島との地域上の対立が相互に影響し合いながら存在しており、今後のマーシャル現代政治を考える上での対立構造となっていくことが予想される。

4.おわりに

 本稿では、マーシャル諸島における政権交代の動向を検討しながら、政権運営をめぐり政権内に生じている二つの対立構造を明らかにすることであった。
 2007年1月に行われた総選挙において、ノート大統領率いるUDP政権が過半数を取れなかった原因について、ノート政権下での政策上の問題点を中心に考察した。大統領に選出されたトメインは、当初はAKAとの連立政権を組み、クワジェリン問題に対して米国政府の厳しい態度に対立する構えを示してきたが、その後クワジェリン問題が一向に進展しないことで、むしろ国内経済は悪化し、マジュロを中心に国民からの不満が高まっていった。他方で、政権運営をめぐっても、政権内でクワジェリンの伝統的指導者であるイマタ・カブア元大統領の権威を背景に大統領の地位を脅かすデブルム外相と、マーシャルの政治官僚体制を再整備し、トメイン大統領からの信頼も厚いフレッド・ペドロ官房副長官との間の対立関係が深刻化していく。その結果、トメイン大統領は対米外交の現実的な対話路線と、クワジェリンの伝統的指導者層の排除という二つの目的を達成するため、内閣改造という手段を利用し、AKAとの連立政権からUDPとの連立政権へと政権運営を大きくシフトさせた。対米外交の大幅な変更を中心に現実路線による政権運営を進めたトメイン大統領に対して、AKAは大統領は国内の最重要課題であるクワジェリン問題を軽視していると非難し不信任案を国会に提出し、前回総選挙でトメイン大統領との間に大きな確執が生まれたノート元大統領を中心とした一部UDP議員を造反させて、同案を可決させた。これに対して、トメイン大統領は、自らは退陣しつつも水面下で多数派工作を進め、マジュロの大首長家の筆頭であるザダカイア国会議長を説得して、大統領に選出した。
 以上の流れを踏まえ、ザダカイア政権の今後について予想する場合には、現在のマーシャル政治における二つの対立軸に注目する必要がある。
 一つは、国会において勢力を有している伝統的指導者たちと大統領府で実際の政治運営を行っている側近官僚たちとの間の政治権力をめぐる対立である。マーシャル諸島も他の大洋州島嶼国と同様、第二次世界大戦後、旧宗主国の要請から独立を「強いられた国家」として、急激な国家建設を余儀なくされた(17)。建国以後、初代アマタ・カブア大統領は、国内の二つの列島の伝統的大首長の称号を有するというカリスマ的な伝統的権威と、お抱え外国人官僚を採用して官僚体制を確立する民主政治システムを巧みに利用して、国家建設を円滑に進めてきた。しかし、アマタ・カブア大統領の死後、伝統的権威を保持しようとするグループと、官僚を中心とした民主政治システムの下で政治を運営しようとするグループとに分裂し、構成するメンバーに多少移動はあるものの、政権交代における二つの対立軸として定まりつつある。マーシャルの政治支配構造についても、マックス・ウェーバーが支配の3類型で示した伝統的支配からカリスマ支配を経て官僚制に基づく合法的支配へと移行していく構造形態に即して考えれば、現在はアマタ・カブア大統領という絶対的カリスマ国家元首による支配から、官僚支配という近代民主政治システムへの移行期と捉えることができ(18)、今後、近代官僚システムを中心とした大統領府の権力構造は、議会で勢力を持つ伝統的指導者グループの抵抗を受けつつも、マーシャル政治の中心的な役割を担っていくものと思われる。今回マジュロの伝統的首長出身であるザダカイア大統領が選出されたことで、伝統的支配構造への回帰ではないかという指摘もされているが、ザダカイア大統領は、政権運営に関してはトメイン大統領から引き継いだUDP出身の大臣と「お抱え外国人官僚」を中心とした官僚により、官僚支配は一層強まると予想される。むしろザダカイア大統領には伝統的支配者グループが影響力を持つ議会との調整役としての役割を担うことが期待されているのである。
 もう一つは、国内における地域対立、すなわちマジュロを中心としたラタック列島とクワジェリンを中心としたラリック列島の対立構造である。マーシャル諸島では、建国以前の中心地は、歴代の伝統的大首長が埋葬されているアイリンラプラプ環礁にせよ、日本の統治時代のヤルート支庁府が置かれたジャルート環礁にせよ、ラリック列島であった。また今日においても、クワジェリンの米軍基地が国内の経済は当然のこと、政治に与える影響力は大きく、過去の総選挙においても主要なテーマとして扱われてきた。しかし、その一方で、第二次大戦後、米国信託統治領の下で、首都はマジュロに移され人口流入が進んだ結果、現在国内の人口の約半数がマジュロに集まり、政治・経済・外交などの様々な活動がマジュロで展開されている。マジュロへの人口の流入が進んだ結果、国民の関心事は、クワジェリンの基地問題は自分たちにとっては遠くで起きている問題と認識されるようになり、むしろ自由連合協定を中心とした米国との関係や景気動向などのほうがより身近な問題になってきている。このような認識のシフトが起きている現状をはっきりと体現したのが、ザダカイア大統領誕生までの政治動向である。伝統的権威の象徴であり、自らの親戚でもあるイマタ・カブア派から離脱して、トメイン前大統領が率いるUDPと手を組んだ理由の一つには、自らの土地所有地でもあるマジュロの現状を最も重視した結果として考えるべきであろう。ザダカイア政権の樹立によって、次回の2011年に行われる予定の総選挙でも、与党マジュロ陣営と野党クワジェリン陣営という対立構造は継続されるものと予想される。
 もちろん、筆者としても今回の上記のような予測が必ずしも確実なものであると言い切ることはできない。米国を中心とした国際情勢の影響次第では、また新たな対立軸が出現している可能性も否定できない。独立後、四半世紀を迎えるこの大洋州のミニ国家がどのような政治を歩んでいくのかについて、筆者は引き続きライフワークとして追いかけていきたいと考えている。

(1)ノート大統領就任までの動きおよび2003年までの第一次ノート政権下の政治動向については、拙稿「統一民主党による政権獲得への選挙戦術-総選挙分析からみたマーシャルの「民主政治」」(パシフィックウェイ2005 No125 pp.24-39)を参照。
(2) 黒崎岳大「マーシャル経済の現状と民間企業の動向-経済環境の整備を中心に-」(パシフィックウェイ 2006 No.127 pp.4-16)
(3) Pacific Islands Report 2008.4.7
(4)トメイン大統領が「親中派」とされた理由として、従来から国連中心の外交政策を進めるためには中国との外交関係の重要性を認識する意見を示していたことにある。また1991年の総選挙前に野党のリーダーであったトメインがアマタ・カブア大統領と和解したのは、アマタ・カブア大統領が米国中心の外交政策から国連中心の外交政策に変更したことを示すべく、台湾から中国に外交関係を変更したことを評価したからであると言われている。
(5) Pacific Islands Report 2008.7.25
(6)トメイン国会議長グループとAKAが中心となり結成されたUPPの政策方針において、当初政権獲得後は台湾から中国に国交を切り替えると発表していた。
(7) Pacific Islands Report 2008.1.16
(8) Pacific Islands Report 2008.2.1
(9) Pacific Islands Report 2008.10.15
(10)トメイン政権下で登用された若手次官としては、キャスティン・ニムラ官房長官(就任時38歳)、キノ・カブア外務次官(就任時30歳)等がいる。
(11) 仮に2016年にクワジェリン基地をマーシャル側に返還するとなった場合、米国国防省の調査データによると、基地の置かれたクワジェリン島を原状回復させるためには植生の回復も含めて7年間必要であるとされていたため、クワジェリン基地の使用延長の許可をめぐる回答の期限は2009年とされた。
(12)マーシャルの伝統的な土地所有システムに則れば、現在の実際のマジュロの土地権利所有者(レロージ)は、母親のアタマ・ザダカイアである。しかし、マーシャルの慣習において女性が土地権利者になった場合は、その権利者が年少時はその兄が、高齢になった場合はその息子が管理者として代理することになっていることから、現在チューレーランが母親に代わって土地権利所有代理者となっている。なお、カブア家の伝統的首長の系譜関係については表1の親族系譜図を参照。
(13) Pacific Islands Report 2009.11.3
(14)トメイン政権成立直後においてAKA出身の有力議員であったアディン財務大臣は、地元エヌエタック環礁開発計画や核実験被害者への補償に対する米国との交渉担当役への就任をきっかけにトメイン大統領に対する支持の姿勢を強めていき、結果、多くのAKA議員が賛成した2009年4月の不信任案では反対票を投じ、AKAから離脱した。
(15)現政権においても、ペドロ副官房長官をはじめとして、タファキ大統領顧問(フィジー出身)、ハッカー経済政策計画統計局長(米国出身)などが上げられる。
(16)大統領府から職を解かれたフレッド・ペドロは、ノート政権下では民間ラジオ放送局(V7Emman)のオーナー兼パーソナリティを務めており、ラジオ放送を利用して政府の政治運営に対する批評を行っていた。とりわけノート政権に対しては、米国からの経済支援に依存する体質について、「自由連合協定の交渉以上に基本的な対応がなされていない」と痛烈に非難した(Yokwe on line 2004.3.14)。
(17)小林泉・東裕 1998「強いられた国民国家」佐藤幸男編『世界史の中の太平洋』(太平洋世界叢書)国際書院
(18)ウェーバー、M.(世良晃志郎訳)1997 『支配の諸類型』創文社


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