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136-ビキニアンの現在 -核実験補償をめぐる戦いと社会経済開発-

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ビキニアンの現在
- 核実験補償をめぐる戦いと社会経済開発 -

研究員 黒崎岳大(くろさき たけひろ)


1.はじめに

 2010年8月1日、ブラジリアで開催された第34回ユネスコ世界遺産委員会で、マーシャル諸島にあるビキニ環礁の核実験場跡(ブラボー・クレーター)が世界遺産リストに登録された。ここは、冷戦下に米国が核兵器の実験を行った場所として有名である。ビキニ住民は、米国の核実験に先立つ1946年3月に故郷のビキニ環礁から強制移住を余儀なくされた。世界遺産委員会に出席するためブラジリアを訪れていたキリ/ビキニ/エジット(Kili/Bikini/Ejit, KBE)地方政府市長のアルソン・ケレン(Alson Kelen)は、「島を追われた私たちの前世代は、人類にとっての利益及び世界中の戦争を終わらせるための犠牲になると理解しました。しかしその結果は、悲しいことに美しい島々が大破壊の残骸として残され、私たちは生活の場を失ったのです」と語った。また今回の世界遺産登録へのノミネートに向けた活動を当初から支えてきたオーストラリア人のニコール・ベイカー(Nicole Baker) は「ビキニ環礁は核の時代の幕開けにとっての記念碑である」と世界遺産に登録された意義を強調した。KBE地方政府がビキニ環礁の世界遺産登録を実現させるまで費やした年月は約5年。この間には2009年4月のオバマ大統領による核廃絶への取り組みを訴えるプラハ宣言など、核問題に対する環境の変化が起きている。しかし同時に、遺産登録の実現は、関係各国・機関との間で重ねてきたKBE地方政府の努力の賜ともいえる。こうしたKBE地方政府の粘り強い交渉努力を目にすると、従来のビキニ住民に向けられてきたイメージや言説とは、かなり異なるビキニ住民の姿を感じざるを得ない。というのも、実験から1980年代にかけては「米国という大国の思惑に翻弄されて苦悩する人々」、そして1980 年代以降は「比較的潤沢な補償金を手にして甘やかされた人々」という報告ばかりがなされてきたからである(1)。

 本稿では第一に、米国の核実験によりビキニ環礁を追われた住民たちの実情について検討する。具体的には、ビキニ環礁とビキニ住民の特徴を明らかにし、強制移住の中で生じた社会/文化の変容について触れていく。第二に、1980年代より本格的に始まる米国政府に対する補償金をめぐる交渉の動向を、その時代背景とともに述べる(2)。そして第三には、米国から得た補償金をもとに、ビキニ住民が自らの生活向上に向けて行ってきた開発戦略、すなわち(1)ビキニ住民を対象にした教育向上プログラム、(2)ビキニ環礁への再定住に向けたクリーンアップ計画、(3)ビキニ環礁を観光資源に仕立てるダイビング観光プログラム、(4)世界遺産登録に至るまでの交渉、これらについてビキニ住民の考え方に着目しながら分析していく。

2.ビキニ環礁とビキニアン

(1)ビキニ環礁の概要
 ビキニ環礁は、中部太平洋に位置するマーシャル諸島北西部、ラリック列島北部にある。マーシャル諸島は29の環礁と5つの単独島から構成されているが、ビキニ環礁は国内で4番目に大きい。土地面積は3.4平方マイルであるものの、ラグーン(焦湖)の大きさは240平方マイルを抱えている。ビキニ環礁には北東部にある最大のビキニ島と南西部にある2番目に大きなエニウ島がある。
 ビキニ環礁が位置するラタック列島北部地域は、マーシャル人の多くが住むマジュロ環礁やクワジェリン (Kwajalein) 環礁、あるいはジャルート(Jaluit)環礁と比べて年間降水量が少なく、1月から5月の乾季にはほとんど雨が降らない。しかし、植生は比較的豊かで、環礁内にある小島では、ココヤシ、パンダナス、パパイヤ、バナナ、タロイモ、パンノキ及びカボチャが自生している。また広いラグーンにはリーフフィッシュやヤシガニ等の食用動物の生息も見られる。

 ビキニ環礁を一見すると、典型的な南国のパラダイスのようであり、それは現代文化によって愛された平和と純朴な場所というイメージを思い起こされる。しかし島に一歩近づくと、核実験のあとにできたクレーターの傷跡や塹壕跡等々がすぐさま目に入り、核実験という戦後最大の環境破壊の一つが行われた被災地であったことを思い起こさざるを得ないのである。

(2)ビキニ環礁民の分布と特徴-“ビキニアン”と“リビキニ”
 現在ビキニ環礁の出身者とその子孫は、マーシャル諸島各地や米国などの海外にも広く住んでいる。核実験に伴って1946年にビキニ環礁を離れた住民は167人、その内の現存者は2009年10月現在41人だが、彼らの子孫を含めて旧ビキニ島民と言われる人々の人口は現在約4300人にまで膨張した。2009年現在で彼らの居住地内訳を見ると、ビキニ退去直後に皆で移住したキリ島に1200人、マジュロ環礁に約2000人(内エジット島に275人)、マーシャル国内の他地域に360人、海外に700人となっている。
 60年間で20倍以上にまで増加したビキニ出身者だが、これは単純にマーシャル諸島における人口の自然増加に伴うものだけの理由ではない。それはビキニ出身者を指す概念である二つの用語、ビキニアン(Bikinian)とリビキニ(Ribikini)の相違に基づくものである。
 通常ビキニ環礁出身者という場合に伝統的な文脈で使われるのは、リビキニである。リビキニとは、母系出自の系譜に基づきビキニ環礁に土地所有権を持つ人々を指す。これに対してビキニアンとは、ビキニ出身者もしくはその子孫たち全てを指す用語である。
 ビキニ環礁は上述のように、世界経済の中心地域からは当然のこと、マーシャル国内からも遠く離れており、核実験による強制移住が行われる以前は、ビキニ環礁内部で大半の婚姻関係が行われてきた。そのため、「リビキニ=ビキニアン」として捉えることがほぼ可能であった。

 しかしながら、強制移住によりマーシャル国内及び国外に広がったビキニ出身者たちは各地の環礁住民と婚姻を行うことで、マーシャル各地にビキニアンが拡大していった(3)。このように婚姻によってファミリーに組み込まれた人々の存在が、ビキニ出身者が急増した大きな要因になっている。これが、補償金の支払いなどにおいて予想外の支出を伴う問題ともなっているのである。近年人々の移動が盛んになり、出身地を基準に出自を認定することが難しくなってきているが、本稿では以降、特別に触れない限りは一般的な意味で、ビキニ環礁出身者をビキニアンとして記述していくことにする。

3.ビキニ核実験と強制移住の歴史

(1)核実験前までのビキニ環礁
 1600年代にスペイン人により「発見」され、その後ドイツ人によって世界システムの中に組み込まれていったマーシャル諸島は、当初はココヤシからとれるコプラ油生産地とされてきた。この当時、肥沃な南部環礁ではコプラの生産が活発で、欧米から来た貿易商との間で交易が行われていたのに対して、乾燥した北部地域に位置していたビキニ環礁では、外来訪問者との接触はほとんど無かった。このような孤立した状況だったから、自ずと環礁内での婚姻関係が主流となり、これが家族の連帯や伝統意識などの社会的結束を強める結果につながったと考えられる。調和のとれた平和なビキニ環礁の生活だった。
 しかし、その平和な暮らしも1900年代初めになって、突然幕が引かれてしまう。日本人によるマーシャル諸島の統治から始まったことで、それまで注目されていなかったビキニ環礁を含む北部地方が戦略上重要視されていき、米国との戦いに備えた日本軍守備隊の要地として組み込まれていったからである(4)。
 戦後すぐの1945年12月、トルーマン大統領は、陸海軍の共同核実験は原子爆弾の効果を図る上で必要であるとして、実行指令を発した。ビキニの位置が通常の航空路や海路から離れていたため、新たな核実験場に選定された[Micronesia Support Committee 1983]。
 1946年2月、ビキニを訪れたマーシャル軍政府長官のベン・ワイヤット (Ben Wyatt) は、日曜日の教会活動の後に住民を集め、「人類の利益と全ての戦争を終結させるため」との理由で一時的に島を離れることを要請した。当時の住民のリーダーであったキング・ジュダ (King Juda)(5)は立ち上がり、「全ては神の手の下にあることを信じて離れよう」と述べた。
 167人のビキニ住民が大移動の準備を進める一方で、米軍による核実験プログラムの準備も急速に進められていった。42000人を越える軍関係者及び文官が核実験場に送り込まれた[Haine 1974]。1954年3月1日の早朝、ブラボーと名付けられた水素爆弾がビキニ環礁の北西部の珊瑚礁内で爆発した。その結果、環礁内の3つの島(ボキニジエン、アエロコチョール、ナム)が破壊された。またこの近海でマグロ漁をしていた第5福竜丸が、死の灰を浴びて乗組員全員が被曝。またビキニの東125マイルに位置づけられていたロンゲラップ島にも雪のような「死の灰」が降り、その環礁に住んでいた64人と、近くのアイリンナエ(Ailinginae) 環礁に住んでいた18人が被曝した[Johnston and Barker 2008]。

 マーシャル諸島での核実験は、その後1958年まで、ビキニ環礁とその西部にあるエヌ エタック環礁で合計67回、そのうち23回がビキニ環礁で行われた。

(2)ビキニアンの離散経過
 1946年3月にビキニアンの強制移住は、その後長く続く島民離散の始まりであった。
 クロスロード作戦の準備を受けて、ビキニアンはビキニ環礁の東125マイルに位置するロンゲリック環礁 (Rongerik) に移住させられた。ロンゲリック環礁には住民は居住していなかった。その理由は、マーシャル人たちは昔からビキニの六分の一の面積しかないこの環礁では、十分な水や食物を確保できないので住むことは難しいと考えていたからである(6)。これに対し、米軍本部はビキニアンに対して数週間分の食糧を供給したに過ぎなかった。これだけでは不十分なのは明らかで、供給された食糧が枯渇すると、ビキニアンは飢餓に苦しんだ。ラグーンには食用となる魚が十分に獲れず、毒を持った魚さえ口にせざるをえなかった。その結果、2ヶ月後には、故郷の環礁に戻してくれるよう米軍に嘆願した。(7)
 1947年5月には状況はさらに悪化し、それに加えて大規模な火災まで発生してて沢山の椰子の木が失われた。7月にはロンゲリックを訪れた米軍医師の報告で、ビキニ住民が栄養失調に陥っていることが明らかになった。そこで、派遣された米軍の調査団は、ロンゲリック環礁は食糧や水の供給には不十分、よってビキニ住民を遅滞なく移動させる必要があると結論づけた。このことはマスメディアを通じて米国海軍への批判につながり、報道記者のハロルド・アイキーズ (Harold Ickes) は、「ビキニアンは飢え死に寸前にある」と自社のコラムに掲載した。また、ハワイ大学の人類学者レオナルド・マソン博士 (Dr. Leonard Mason) が信託統治領高等弁務官の要請で1948年1月にロンゲリックを訪問したが、ビキニアンのために至急医務官を派遣する必要があると感じて、嘆願書を書いた(8)。
 1948年3月、ビキニアンはクワジェリン環礁に移住。そこでは、米軍が使っていたテントに住まわされた。クワジェリンでの生活は不十分ではあったものの、飢餓の心配がないという点ではロンゲリックでの生活より好ましかった。しかし、クワジェリンはあくまでも一時的な滞在地に過ぎずに、すぐに次の居住地を探す必要があった。
 1948年6月、ビキニアンはマーシャル諸島南部のキリ島に移動することになった。それは同島には、居住者がいず、イロージと呼ばれる伝統的支配者層による土地使用権も存在しなかったからであった。また、日本の委任統治領時代には野菜や果物の栽培が行われていたので、食糧の面からはクワジェリンでの生活よりは望ましい場所に感じられた。しかしこの選択は、結果としてラグーンでの生活を基本とする彼らの伝統的な食生活や生活様式を失うことにつながった。
 1948年9月、先発隊としての24人のビキニアンが8隻のシービー船に乗り込み、キリ島に向かった。クワジェリンに残った住民のために住宅の建設を始めるためであった。そして11月には、残りの184人がキリ島に移住を果たしたのである。しかし、ビキニアンは、このキリ島でもまた飢餓に苦しまなければならなかった。この状況に米軍は、キリ島とジャルート環礁間を結ぶ40フィートのコプラ運搬船を提供して食糧の供給を試みたが、1951年にこの船は激しい波により珊瑚礁に打ち上げられ、コプラを積んだまま沈んでしまった。すると再び食糧の供給不足が生じ、空輸での緊急支援が必要となった(9)。
 キリ島での居住を困難にさせていた理由の一つは、ラグーンの欠如であった。ビキニ環礁が23の島に囲まれた大きく穏やかなラグーンを抱えていたのに対して、キリ島にはラグーンがない。島の周辺は一年中10~20フィートの激しい荒波が立っており、「監獄の島」と呼ばれるようになっていた。こうした島環境ゆえに食糧の自給体制もままならず、補正予算によってもたらされた米国農務省による米、缶詰、その他の食糧が恒常的に提供されるようになった。
 クワジェリンへ移住した人たちの中には、皆と一緒にキリ島に行くことを選択せずにそのまま定住する者、マジュロ環礁などの他の環礁に独自に移住する者もいた。とはいえ彼らも、言葉や生活様式・習慣の違いから生じる差別などの被害を受けることになった[Weingartner and Minority Rights Group 1991]。
 こうしたビキニアンの苦しい移住先での生活は、望郷の念をことさら募ら背手言ったのである。そんな1967年、米国政府はビキニ環礁の放射能レベルのデータを分析して、ビキニ環礁への帰島は可能であると発表。この楽観的意見は原子力委員会から出された調査結果によるもので、その報告書には、①ビキニでは井戸の水を飲んでも問題はなく、飲み水の放射能量は安全基準から見て無視できる範囲にある、②帰島に伴って旧住民が受けるだろう放射能の影響は健康に害を与える恐れはない、と述べられていた。これに伴い1968年6月、リンドン・ジョンソン米国大統領は、キリ島等に住む540人のビキニ住民に対して帰島を許可し、再定住の準備を急ぐと約束をした。
 1969年8月、ビキニ環礁再定住のための8カ年計画が立てられた。この計画の第一段階は、米国原子力委員会と国防省によるビキニ島の放射能堆積物除去。第二段階は、植物の再栽培や住宅の建設及びコミュニティの再生。これら事業は原子力委員会と信託統治政府が責任を持つこととなった。そして、1969年終わりまでに最初のクリーンアップ作業が完了。これを受けて原子力委員会は住民に対して、「もはや放射能は残っておらず、動植物にも残存放射能は認められない」と報告した。
 しかし1972年後半には、「ビキニ環礁に住むヤシガニは成長の過程で、自らの脱ぎ捨てた殻を食べるが、この殻の中に高レベルの放射能が蓄積されている。よって、ヤシガニの体内には放射能が残存しており、限られた量しか食べてはいけない」とするビキニの安全宣言を揺るがす新情報が、原子力委員会自身によって公表されたのである。
 安全宣言の一方で残存放射能の危険性を訴える矛盾情報を受けたビキニ地方政府議会は、米国政府によって進められていた帰島計画に反対する採決をした。しかしこの採決は、個々人が自らの意志で帰島することを妨げるものではなかった。
 そのため、放射能のリスク以上に帰島への念が強かった3つの拡大家族はビキニ島に戻り、新たなセメントの住宅を建設して住み着いたが、それを機にビキニの人口も徐々に増加していったのである。この間も定期的な測定調査は続けられていたが、そこから導き出される結果はいずれも通常の想定値よりも高レベルの放射能値が示されていた。そこで米国内務省は「ビキニは安全に関する疑わしさが残る」、「ビキニ島の一部の井戸で採取された飲料水には放射能が残存している」と報告。原子力委員会も「ビキニ島で育った植物には通常人間が消費する以上の放射能が含まれている」、「ビキニに住む100人から採取した尿サンプル調査の結果、低レベルのプルトニウム239と240の存在を確認した」と公表した[Lutz 1984]。
 こうした安全宣言とは矛盾する調査結果を知ったビキニアンは、1975年10月に米国連邦政府に対してビキニやマーシャル北部での本格科学調査を要求。米政府もこれに応じて科学的調査を開始した。そして1977年5月には、米国の基準値を遙かに上回る放射性ストロンチウム90がビキニ島の井戸水から検出された。こうした結果を受けて、エネルギー省は住民に1日一つ以上の椰子の実を食べないように警告し、島で食べる食物は船で輸送すると伝えた。

 1978年4月の医学調査でも、住民139人の多くから米国の許容レベルを超える放射能数値を確認。これを受けて内務省は、75~90日以内に島からの撤退を伝え、1978年9月には、信託統治領政府がビキニ島住民に再度の退避命令を出した。そこで住民のほとんどは、キリ島ではなくマジュロ環礁内にあるエジット島に居住することになった。

(3)今日のビキニ環礁の放射能状況
 以上のように残留放射能を巡る問題は、ビキニアンたちの強制移住生活に大きな影響を与えた。では、科学者たちはどのような基準や根拠に基づいて、安全度と危険度を判断してきたのであろうか。
 1970年代後半から現在まで、ローレンス・ライブモア国立研究所(Lawrence Livermore National Laboratory)はビキニの放射能の現状について、年2回のミッション派遣による継続的調査を行ってきた。1980年代初めには、著名な米国科学者グループからなる「ビキニ環礁復興委員会 (Bikini Atoll Rehabilitation Committee)」が米国議会に対して放射能に関する報告書を提出した。1995年2月には、スティーヴン・サイモン博士 (Dr. Steven Simon)らグループによる全国放射能学会による調査が行われた。1990年代初めにはビキニアンは、ドイツ人のヘルウィグ・パレツキー博士 (Dr. Herwig Paretzke) による独立した科学者を雇い、これまでの調査に対する再調査を行わせている。以上の調査報告は、国際原子力機関(International Atomic Energy Agency,IAEA)によって招聘された科学者会議に提出され、ここでも再調査が行われた。
 1996年に提出されたIAEAのビキニ諮問委員会予備調査結果において、ビキニの放射能に関して以下の報告が述べられている。
 「島中を歩き回ることは安全であった。確かにビキニ環礁内にある島の残存放射能はマーシャル諸島の他の環礁よりもなお高いが、測定値は健康上害となるレベルではない。実際に自然のレベルで、現在のビキニ環礁よりも高い放射能を何代にもわたり受けている人々が住む場所が世界にはある。よって、国際的に同意されている科学的・医学的基準により、空気、地表面、ラグーンの水質および飲料水のいずれにおいても安全で、ラグーンや島を訪問する上で放射能のリスクはない。核兵器実験は事実上、海洋生物に対してセシウムを残していない。ラグーン内に沈殿したセシウムは、ずっと以前に海洋に分散している。主たる放射能リスクは食物からである。ビキニで育った果実などを食すると、体内に著しい放射能を蓄積させてしまう。ただ、時折ココナッツやパンの実を食する程度ならば懸念するには及ばないが、長年にわたり多くの食物をとり続けた場合には、治療行為を行わなければ、国際的に合意されている安全レベルを超える放射能量に至る可能性もある。」

 これを受けて、1998年3月に出されたIAEAの最終報告書では以下のように結論づけられた。

・もはやビキニ環礁における放射能の状況についての調査や査定について、独自の実証作業を行う必要はない。ビキニ住民に対してはコミュニティメンバーが参加する形での放射能レベルを監視する限定的なプログラムを行うことで、実際の放射能状況に関して安心感を持たせることができる。
・現在の放射能状況では、医療行為なしでビキニへの再定住は勧められない。(従来の自給自足をしてきたマーシャル人のごとく)現地で生産された食物を食べることで放射能が蓄積されると思われるからだ。ただし、実際にはかなり浸透している現代的なマーシャル人の食生活は、輸入食品に多くを依存している。よって、放射能被害を受ける可能性はほとんどない。
・現在の残存放射能から判断すると、ビキニ島に継続居住することは可能。推奨できる明確な戦略はない一方で、カリ肥料改善戦略(栽培植物が育つビキニ島の全ての場所で、表面土壌を取り去り、カリ肥料を使いながら継続的に土地改良を行っていく方法)を使用した戦略は好ましいアプローチであると考えられる。カリ肥料改善戦略から意図される結果は、慢性的暴露量を避けるだけの国際的ガイダンスにのっとったものである。ゆえに、この戦略は早期の再定住を行う上で放射能の影響にとって安全な環境をもたらす。土壌解体修復戦略などの他の戦略は、残存放射能核種の量を避ける上では非常に効果的である、しかしそれは環境の面からも社会的な面からも重大な問題がある。また、ビキニ環礁の中のビキニ島以外の島々に関しては、復旧活動を行う段階にはない。

4.核被災補償をめぐる争い

 ビキニアンに対する米国政府からの補償は、1975年に供与された「ビキニ住民に対するハワイ信託基金」という300万米ドルの信託基金だった。この基金は、1978年に追加の300万米ドルが加えられたものの、2006年12月に清算された。1982年に、「ビキニ住民に対する再定住信託基金」という総額2000万米ドルの信託基金を受けている。この信託基金は、その後ビキニ環礁内のビキニ島及びエニウ島のクリーンアップにかかる費用として9000万米ドル追加資金が支払われた。
 これらの資金はキリ島やエジット島に住むビキニアンのための社会インフラ建設や今後の再定住活動のために使われた。これに伴い地方政府の年度予算は700~1000万米ドルに拡大した。これらの資金は地方政府の運用費用として支払われ、地方政府役人への給与、住民子女の米国などへの留学資金、住民の保健衛生費用、会議参加への出張費用及び訴訟費用として使用された。これらを合計すると、2009年6月現在までで総額約7300万米ドルが支払われたことになる。
 さらに1986年には、マーシャル諸島政府と米国政府との間で自由連合協定(Compact of Free Association)が締結され、同協定177条項により以後15年間にわたりビキニアンへの損害賠償に対して総額7500万米ドル(年間500万米ドル)が支払われることとなった。この資金の内、2.4百万米ドルが、1987年以降ビキニアンに対して4半期ごとに個別に支払われ、残りの2.6百万米ドルが「ビキニ住民請求信託基金」として信託基金に組み込まれた。このビキニ住民請求信託基金は、現在約5.5百万米ドルにのぼる。4半期ごとの住民への支払いは2002年に終了したが、信託基金は現在も続いており、毎年信託基金の元本からの5%の運用利回りがビキニ住民に支払われている。
 1986年の自由連合協定により設立された「核被害補償請求裁判所 (Nuclear Claims Tribunal)」は、マーシャル内の核被害の訴えや損害状況を調査し、米国への補償要求や住民への補償金支払い代行などを担う組織である。2001年3月5日に同裁判所は、核実験の間にビキニアン及び環礁が受けた被害額が総額約5.6億米ドル、その内訳は財産の喪失(約2.8億米ドル)、復興費用(約2.5億米ドル)及び住民の受けた苦悩・困難(約0.3億米ドル)と認定した。同裁判所自身は財源不足により支払い能力はなく、これを米国政府に要求したが、米国政府はこれに応じなかった。

 しかし、マーシャル側と米国との核被害補償問題は、これですべて決着が付いたわけではない。自由連合協定では米国政府との間で「最終でかつ完全な解決」として確定されたが、マーシャル側は協定に書き込まれている「環境変化 (Changed Circumstances) に伴う修正事項」を適用して、状況に応じて核補償問題の再交渉の余地があると考えている。マーシャル政府は、KBE地方政府を中心とした4つの核被害補償が認められている環礁グループ(ERUB)に加え、自由連合協定では認められなかった他の環礁での被害を提示し、核被害補償の増額を含む改定交渉を行う考えを棄てていない。マーシャルと米国の間では、核問題の決着見解をめぐって、今後も訴訟と議論が続くものと思われる(10)。

5.ビキニ被災民の現在

 被害に対する妥当な額であったか否かはともかく、ビキニアンたちは米政府から多額の補償金を手にした。彼らの中には、マジュロやホノルルなどで散財するなどの浪費に明け暮れる者たちも確かに存在したが、大半のビキニアンは、KBE地方政府とともにこの補償金を利用して、次世代の生活向上のために役立てる戦略を立てている。ここでは4つの視点に着目しながら、地方政府及び住民はどのような姿勢を示したについて述べる。

(1)ビキニ住民への教育支援
 1980年代前半に、米国政府より補償金を獲得するとすぐ、ビキニアンのリーダーたちは子供たちのためのよりよい教育を考えた。彼らは、故郷の島を離れざるを得なかった原因の一つが無知にあったと認識したからである。
 筆者は2004年にキリに住むビキニアン400世帯に対して実地調査を行ったが、多くの世帯(220~230世帯)で子弟のために教育資金の積み立てを行っていた事実を知って驚いた。子弟に教育を受けさせようとする強い意識と補償金による潤沢な資金を背景に、積極的な教育の向上プログラムが進められていた。
 1984年には、地方政府はエジット島とキリ島の学校に大学で訓練を受けた教師を雇いはじめ、小学生たちに教えると共に、夕方からは成人教育を行った。1990年代初めには、この教育プログラムを拡大させ、よりよい教育を受けるため米国や海外に行く学生に対する留学プログラムにまで用いられるようになった。現在、幼稚園レベルから大学院レベルに至までの500人を超えるビキニアン子弟がこの教育プログラムの恩恵を受けている。キリ島やエジット島の子弟に対しては、マーシャル短期大学を卒業した教師に加え、ダートマス大学の卒業生たちが教えている(11)。

 教育支援の拡充は、ビキニアンは田舎者とされたイメージを変えることにも繋がっている。ビキニ環礁から強制移住させられたビキニアンたちは、多くの者がキリ島やエジット島に移住したが、一部はマーシャル国内に散らばって行った。そうした彼らは、言葉や習慣の違いから、野蛮で粗暴な田舎者として扱われた。補償金を入手するようになった1980年代になると、ねたみも加わって「野蛮人ゆえに卑しい」といった批判さえ浴びることがあった。その一方で、補償金を目当てに婚姻を望む者さえも現れた。しかし、子供たちの教育に力を入れてきた成果により、近年ではかえって「高度な教育を受けている人々」という評価も得ることになってきたのである。

(2)放射能クリーンアップ計画をめぐる意見の相違
 ビキニ環礁での本格的なクリーンアップ計画が開始されたのは、1991年からである。当初は環礁の中心となるビキニ島に専念された。このクリーンアップ計画で問題になったのは、どのような方法で行うかにあった。放射能汚染土壌のクリーンアップには、大きく分けて二つの方法がある。一つは、表面の土壌を完全にはぎ取り土壌を完全に入れ替える。もう一つは、土壌の完全入れ替えは行わず、そこで採取される食用植物や果物が汚染されないように土壌にカリ肥料を散布する方法であった。
 1970年代の一時帰島計画の失敗を経験したビキニの指導者たちは、全島土壌を15インチ下まで取り除く第一の方法を要求した。表土を取り替える方法が、次世代が安心、安全に暮らしていくための唯一の方法だと繰り返し主張した(12)。
 これに対して科学者たちは、土壌を取り除く方法は、島からセシウム137は取り除けるが、島の表土を取り除くことで生じる環境への悪影響を懸念した。
 こうした両者の意見の折衷案として、科学者たちは住宅や施設の建設地では表面から40 センチの深さまで土壌を取り除き、破砕したサンゴと入れ替える方法を提案。また、作物が根から放射性のセシウム137を吸収しないよう、農地にはカリ肥料が散布された。
 その後1995年終わりに、ビキニ島のクリーンアップに使われたインフラは全てエニウ島に移された。その結果、1997年2月にはビキニ島で着工式が行われ、その後いくつかのビキニ環礁の島でもクリーンアップを行うべきか検討が始まった。
 こうしたビキニ環礁のクリーンアップ計画は少しずつではあるが進展している。だが、ビキニアンたちの帰島計画は全く進んでいないのである。これは汚染土壌のクリーンアップを含めた再定住計画が進まないという技術的な問題ではなく、むしろほとんどのビキニアンたちは、いまさらビキニ環礁に定住したいとは思っていないからなのだ。
 ビキニ環礁は、大きな魚が豊富に群れるラグーンを持ち、食用の野菜や果物が育っている。かつてのように自給自足による伝統的な生活様式を行うのであれば、確かに好ましい場所だろう。しかし、現在のマーシャルの中心であるマジュロやクワジェリンからは500マイルも離れており、マジュロからビキニへは国内線エア・マーシャルに乗ってクワジェリン経由で3時間余りかかってしまうのである。

 これに対して、現在約1200人のビキニアンが住むキリ島は、マジュロからわずか170マイル、空路で40分余という便利な位置にある。キリに住む多くのビキニアンは、4ヵ月に一度の補償金支給日にマジュロを訪問し、必需品など物資を調達してキリ島に戻るという生活に慣れてしまった。ましてや現在のビキニアンの大半はビキニ環礁から移住した後に生まれた2世、3世がほとんどになった。ビキニ環礁を記憶に留めている第一世代とは異なり、親から話を聞かされてきただけの世代が、定住先としてビキニ環礁を選択しようとは思わないとしても、これはむしろ当然のことだと言えるだろう。

(3)ダイビング観光プログラムの進展
 以上のように、時代の流れがビキニアンたちの感情を変えていった。いずれは故郷のビキニ環礁へ帰るという島民的悲願は、世代交代と日々の生活実感の中で薄れていった。もちろんビキニへの愛着は残っているだろう。しかしそれは、今暮らしているキリ島やエジット島の便利な生活を捨ててまで帰島する動機にはならない。こうした感情が、ビキニアンたちにビキニ環礁に対する新たな考え方を生み出すことになった。すなわちそれは、観光産業を作り出すための資源としてのビキニ環礁である。
 クロスロード作戦の結果、ビキニ環礁のラグーンの底には、全長280メートルの米軍空母「サラトガ」や全長220メートルの日本戦艦「長門」、その他にも戦艦アーカンソー、2隻の潜水艇などが沈められた(13)。全ての戦艦は、レック・ダイビングのために近づいても放射能汚染の心配はないことが科学的に証明され、ダイビングの観光資源として使用されることになった。
 ビキニアンにとってダイビング観光は、再定住計画のための礎石にもなる。そこでリーダーたちは、ビキニ島やエニウ島と同様に環礁内23島全てをクリーンアップするための追加資金を得るために、米国議会に対してロビー活動を行っている。1996年には2人の米国の上院議員がビキニを訪れている(14)。
 現在、ビキニ島には、道路の建設、船のドックや船着き場の建設、電力施設、水道用の井戸・上下水道施設、エニウ建設施設(衛生電話施設・プロジェクトオフィス)、60~100人宿泊可能な施設が設置され、また第二の島であるエネウ島には、空港施設(空港ビル、滑走路照明システム、進入角指示灯システム、燃料補給所)が設置された。
 2001年度より、それまで米国人によって運営されていたダイビング・プログラムをビキニアンが引き継ぐことになった。彼らは釣り用とダイビング用の2隻のボートを購入した。またダイビング・プログラムをサポートするため3台のトラックを購入した。この年は財政的にも最も成功した年である。また2002年には、各部屋3台のベッドの設置した8室の宿泊施設も建設した。2003年及び2004年ダイビング施設のリニューアルを行い、ダイビングボートのための燃料施設やダイビングボンベの酸素充填設備の拡充を行った。2007年までには燃料施設の改善が終了し、リゾートと施設の改善が終了した。
 通常ダイバーたちは、毎週水曜日のマーシャル航空の便でビキニを訪問する。空港のあるエネウ島から宿泊施設のあるビキニ島へはボートで30分ほど。1週間の滞在で12本のダイビングを行うコースが設置されており、ダイビング以外でもトローリングなども行っている。食事はホテルで3食用意されており、またビリヤードなどの娯楽施設と同時に独自のパラボラアンテナを設置しNHKをはじめとしたテレビの視聴も可能である。費用は一人およそ1200米ドル程度で、観光客は米国や豪州からのダイブマスターの資格を持った上級ダイバーが主流だが、日本人も年間10数人が訪れている。
 ビキニ環礁地方政府の努力の結果、ダイビング観光プログラムの評価は徐々に高まっいる。2002年10月に発表された『スキン・ダイバー・マガジン』では、「生涯に一度は訪れたい24のダイビング・スポット」の一つに選ばれた。2007年7月に発表された『コンド・ネスト・トラベラーズ・マガジン』において、ビキニ環礁は「世界の島50」の一つとして紹介され、「これほどエデンの園を思わせるところはそうはないだろう」と評価された。

 こうして順調に進展しつつあったビキニ環礁でのダイビング観光プログラムであったが、突然危機を迎えた。2008年8月23日に、KBE地方政府が2009年以降の通常の観光事業を中止する決定を下したからだ。その最大の原因は、国内航空路線が信頼できる運航ができなくなったからであった。2006年以降、マーシャル航空が保持している2機の航空機の相次ぐ故障により、安定した運航ができなくなっていた。さらに2007年になると、世界的な燃料価格の高騰や株価の急落とそれに伴う信託基金の運用への影響(この運用基金がダイビング・プログラムの補助金として使用されていた)を受け、ダイビング観光事業を継続することが困難になっていった。これ以降は、ビキニ環礁へ自らの船を用意し、KBE地方政府がスポンサーをしているダイビング・ショップ「ビキニ・アトル・ダイバー (Bikini Atoll Diver)」に前もってアレンジをしている人々にのみ開放されている。

6.世界遺産登録に向けた交渉

 ビキニ環礁でのダイビング観光プログラムが順調に進展していく中で、観光地としての知名度を上げる目的で立ち上げられたのが、ビキニ環礁を世界遺産リストへの登録を進めることであった。
 マーシャル諸島での世界遺産リストへの登録の動きを最初に進めたのは、ロンゲラップ環礁地方政府である。ロンゲラップ環礁地方政府は1999年に当選したジェームズ・マタヨシ (James Matayoshi) 市長のリーダーシップのもと、米国からの補償金を利用してロンゲラップ環礁への再定住計画を進めていた。この環礁には、米国や日本、台湾の支援を受け、空港の舗装や再定住者のための住宅や養豚場の建設が進められていた。ロンゲラップ地方政府は、当時注目されはじめた生物多様性に着目し、マーシャル政府の地球環境保全対策室の協力を得ながら、近隣の環礁を世界遺産の自然遺産に登録する動きを進めたのである。
 こうしたロンゲラップ環礁地方政府の動きに関心を示していたのが、当時のKBE地方政府のエルドン・ノート (Eldon Note) 市長である。ノート元大統領の実弟であるノート市長は、ビキニ環礁の観光開発を進める政策をとっていたが、当時観光地としての知名度を急激に高めていたパラオに習い、積極的な広報戦略を検討していた。
 当時在マーシャル日本大使館に赴任していた筆者は、ノート市長と定期的に会合を持ち、日本の原爆ドームなどの「負の世界遺産」の事例について説明を求められ、大使館配布されていた映像資料の分析を行っていた。筆者は、ビキニ環礁にあるブラボー・クレーターの重要性を指摘すると共に、エヌエタック環礁にある核実験跡地をコンクリートで固めて建設したルニット・ドーム(Runit Dome)と共に世界遺産登録を目指すべきだと指摘した[黒崎 2007]。2007年の総選挙でノート市長は交代したが、世界遺産登録に向けた動きは進展していった。2006年からは、オーストラリアから世界遺産を担当するスタッフとしてニコール・ベイカーを雇用し、マーシャル政府との間で世界遺産登録に向けた国内環境整備を進めていった。
 しかし、マーシャル政府は当時ビキニ環礁の世界遺産登録に対して表面的には協力的な姿勢を示していたが、二つの面から必ずしも積極的な協力姿勢を打ち出せずにいた。一つは、世界遺産登録のための国内での環境整備。経済不況の影響を受け、緊急事態宣言を発するなどの国内の財政が悪化している中で、世界遺産登録のための追加的な支援を望む状況にはなかった。二つ目は、米国政府との関係。特にクワジェリン米軍基地土地代をめぐり地元の土地所有者と米国政府の間で板挟みにあったマーシャル政府にとっては、新たな問題の種になりかねない試みを進めるのは得策ではなかったのである。
 こうした状況を変化させたのが、2009年4月に行われたオバマ大統領による核廃絶を目指すプラハ宣言だった。プラハ宣言及び同年のオバマ大統領へのノーベル平和賞受賞を受け、マーシャル国内、とりわけKBE地方政府が積極的に中央政府に働きかけを行った。その際、KBE地方政府は、ビキニ環礁の世界遺産登録について、従来の観光資源としてのメリットについては表面化させず、「決して忘れてはいけない歴史上の事実」として人々の中に刻み込まれるべき出来事という歴史的・文化的な意義を強調し、世界各国からの協調支援を得る戦略を行ったのである。その結果が、2010年8月のビキニ環礁の世界遺産登録につながった。

 世界遺産登録に成功したKBE政府は、ビキニ環礁でのダイビング観光の回復を進めつつ、世界遺産登録によって知名度が上がったビキニ環礁を観光として積極的に売り出していくべく、観光開発計画を策定しはじめている。

7.おわりに

 マーシャル諸島の北西部の地方民であったビキニアンたちは、自分たちの環礁が米国の核実験場に選定されたことで、ロンゲリック環礁、クワジェリン環礁、そしてキリ島やエジット島などへと強制移住させられた。その間、各地で飢餓などの困窮や他環礁出身者からの差別を受けつつも、ビキニアンとして国内及び国外に広がっていった。1980年代以降は、ハワイのNGOなどとの密接な連携しつつ、また冷戦下での米国政権の政策やマーシャル国内の政府との関係をもとに、少しでも有利な補償金を獲得するべく交渉を進めていった。この結果獲得した補償金は、子弟たちの教育支援や将来の観光産業育成のために用いながら、他方でこうした観光産業をさらに促進するために世界遺産への登録などの観光資源の開発を進めていった。
 こうしたビキニアンたちの姿は、米国からの補償金に飼い慣らされて、堕落した被害者として単純にみることはできない。少なくても今日キリやエジットに住むビキニアンたちと話をする中で感じることは、自分たちの前の世代が被った苦しい経験を理解しながら、次世代の生活向上に向けて新たに投資を行う新しいマーシャル人の姿すら感じられるのである。
 このことに関して、ビキニアンやロンゲラップ環礁住民が好んで使う「我々はもはや victim ではない、survivorなのだ」という言葉がある。これはただ単に被災者や犠牲者として現在の状況に留まっているのではなく、苦しい経験を乗り越えて次世代のより良い生活の向上へと取り組んでいるというビキニアンたちの姿勢を示しているといえよう。

 今回の世界遺産リストへの登録の成功は、世界中の国民にビキニ環礁で行われた衝撃的な負の遺産を世界中の人々に印象づけることにつながった。この世界遺産への登録を、ビキニアンの次世代の子弟たちの生活の向上につなげていけるかどうかは、ケレン市長のリーダーシップのもとで進められる今後のKBE地方政府の取り組み如何にかかっているのである。

【脚注】

1)マーシャル諸島における核実験で強制避難をした人々の移住先の生活をテーマとした社会学・人類学的調査論文としては、ジャック・トービン(Jack Tobin)やロバート・カイスト(Robert Kiste)がビキニアンに対して調査分析を行った報告書[Tobin 1953; Kiste 1968; 1974]やエヌエタック環礁での核実験に伴いウジェラン環礁に移住した人々の生活を分析したローレンス・カルーチ(Laurence Carucci)の論文[Carruci 1997]が知られているが、ほとんどは1990年代前半までの補償金による生活が変容し始めた状況までのものである。また、1954年の水爆実験で被ばくしたロンゲラップ環礁の人々を被害に着目し、彼らの生活の苦しさを訴える報告書及び報道記事は多数発表されている。
2) 筆者は2003年3月より3年間にわたり在マーシャル日本大使館専門調査員としてマーシャルに赴任し、同国の経済及び経済協力の動向についての実地調査を行った。その間に、マジュロ環礁内にあるビキニアンが強制移住先の一つとして生活しているエジット島で3年間にわたり、都市生活への適応に伴うビキニアンの行動様式変容についてフィールド調査を実施。また2005年2月には、キリ島に3週間程度滞在し、各世帯への聞き込み調査をして、ビキニ環礁に対するイメージの変容と移住などを通じたビキニアンのネットワークについての調査分析を行ってきた。本稿の内容の多くは、同時期に行ったフィールド調査の結果に負うところが多い。
3) リビキニではないビキニアンの具体的な事例として、ケサイ・ノート(Kessai Note)元大統領が上げられる。ノート元大統領の父親であるナザン・ノート(Nathan Note)はビキニ環礁から強制移住させられた167人の一人であるが、彼とアイリンラプラプ(Ailinglaplap)環礁及びジャボット(Jabot)島のアラップ(Alap、伝統的土地所有者)であった母親との間にノート大統領を含む5人の兄弟が生まれた。彼ら兄弟は皆アイリンラプラプ環礁とジャボット島のアラップではあるものの、ビキニ環礁には土地の権利を持っていない。しかしながら父親がビキニ出身者であることからビキニアンとしてビキニでの核実験に伴う補償金を受け取っている。
4)太平洋戦争中には5人の日本兵がビキニ環礁に残って塹壕に隠れ、米軍が侵出する前に玉砕するという事件も起こっている[Dibblin 1990]。
5) キング・ジュダは、ビキニ環礁のアラップの一人に過ぎず、本来の伝統的首長(Iroijlaplap, イロージラプラプ)はラチュアン・カブア(Lajuan Kabua)だった。ラチュアンは米国との接触を拒絶し、キング・ジュダをイロージ代理に任命してワイヤット長官との面談を受けた。なお、ジュダ一家は、ビキニアンの三つの名門一族の一つで、現在のビキニ環礁選出の上院議員トマキ・ジュダ(Tomaki Juda)は、キング・ジュダの末子である。
6) ビキニアンの口頭伝承によると、かつてマーシャルにはリトボラ(Litobora)という魔女が住んでおり、毒の調合を行っていたが、彼女はロンゲリック環礁のラグーンで亡くなったので、ここに住む魚には毒性の種類が多いとのことである。
7) キング・ジュダは2度目の核実験の結果を検討するため米軍政府派遣団と共にビキニへ帰島した。ロンゲリックに戻ったジュダは、ビキニアンに対して、島は元のままであり、ビキニは同じであると述べている。
8) ビキニアンをマーシャル諸島最西部のウジェラン(Ujelang)環礁に移住させる準備が即時開始された。11月には一部のビキニの若者がウジェランに移動し、コミュニティの場所を確保し、米軍の支援を受けて住宅の建設に移った。しかしながら、米国政府はエヌエタック(Enewetak)環礁を第二の核兵器実験場に選定し、それに伴い米国海軍はエヌエタック住民をウジェランに移住させることにした。
9) 1955年1月には、キリ島では再び食糧の運搬ができなくなり、再び飢餓が発生。翌年以降も飢餓の状態は悪化したため、ジャルート環礁内にキリ島の臨時コミュニティを建設することになった。1957年の後半台風ローラがキリ島を襲い、広範囲にわたる深刻なダメージを与えた。翌年には再び台風がこの地域を襲い、南部環礁を広範囲にわたり破壊した。この台風の結果、ジャルートの臨時コミュニティで暮らしていたキリ島住民はキリに戻った。1960年代以降も食糧不足による住民の苦悩は続いた。
10) 2006年4月12日、ビキニアンは米国政府を相手に連邦請求裁判所に提訴した。提訴内容は、米国憲法修正第5条の下で、米国政府の失策及び2001年3月に核被害賠償請求裁判所が認定した損害賠償額が不十分であることの二点であり、損害請求補償額として利子を含めて約7.2億米ドルの支払いを求めている。
11) 2001年より米国ダートマス大学との間でボランティアの学生を派遣するプログラムが開始され、現在キリ小学校及びエジット小学校に5~6人の教師が働いている。なおキリ小学校は1960年代に、エジット小学校は1970年代後半に、ビキニアンのために設立された公立小学校である。
12) ビキニアンのリーダーたちは、(完全に土壌を掘るのでなく)ツギハギに島の表土を取り替えていけば、環境上のインパクトは最小限ですむと信じていた。島民たちは島から取り除いた土はビキニ島とエニウ島を結ぶコウーズウェイを作るのに使われる計画が好まれた。両島は5.2マイル離れているが、珊瑚礁でつながっていることから引き潮の際は両島の建設地の間で重機を運ぶために使われている。またもう一つのオプションとしてビキニ環礁の北部にあるナム島まで運んでいき、1954年のブラボー実験でできた「ブラボー・クレーター」を埋めるのに使われる計画もあった。
13)戦艦長門は日本軍降伏後、米軍に接収され、クロスロード作戦で核実験の標的とされビキニ環礁に沈められた。現在は上下逆さまになって沈められている。
14)二人の上院議員は、アラスカ州選出のフランク・ムルコフスキー議員とハワイ州選出のダニエル・アカカ議員である。その後ロサンゼルスタイムズの記事によると、ムルコフスキー議員はビキニ住民に対する米国政府の関与について、「過去に対する法的責任のみならず、道徳的責任がある」と述べている。

【文献】

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Carucci, Laurence 1997 Nuclear nativity: rituals of renewal and empowerment in the Marshall Islands. Northern Illinois University Press
Dibblin, Jane 1990 Day of two suns: US nuclear testing and the Pacific Islanders. New Amsterdam. (ジェーン・ディブリン著(沢田朋子、松村美也訳)『太陽がふたつ出た日―マーシャル諸島民の体験』紀伊国屋書店 1993年)
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Johnston, Barbara Rose & Holly M. Barker 2008 Consequential damages of nuclear war: the Rongelap report. Left Coast Press.
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Lutz, Catherine 1984 Micronesia as strategic colony: the impact of U.S. policy on Micronesian health and culture. Cultural Survival
Micronesia Support Committee 1983 Marshall Islands: a chronology, 1944-1983 Micronesia Support Committees.
Tobin, Jack 1953 The Bikini People, Past and Present. s.n. (Majuro)
Weingartner, Erich & Minority Rights Group 1991 The Pacific: nuclear testing and minorities. Minority Rights Group.
黒崎岳大 2007 「マーシャル諸島共和国における観光業の現状と課題」『パシフィックウェイ』(太平洋諸島地域研究所)通巻129号


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