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135--ああ、楽園のはずが-ポンペイ島滞在記第9回

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―ああ、楽園のはずが―

ポンペイ島滞在記 第9回

茂田 達郎(しげた たつろう)



交通量増大と新建造物
 これまで「ポナペ・ホテル奮戦記」として本誌に連載を重ねてきたが、体調を崩していまい不本意ながらしばらく休載していた。年も改まったことなので、気分を一新して再びポンペイ滞在での生活雑感を書き綴っていきたい。
このところ目につくことと言えば、交通量が増したことだ。もう4年以上前のことだが、日本のODA(Official Development Assistance=政府開発援助)総額9億2,600万円によって前田建設が島を一周するメイン・ロードの未舗装部分26kmを完成させた。以来、次第に車両の数が増え、その傾向が顕(あらわ)になった。
 ポンペイには駐車違反の罰則がない。事故車や故障車は道端に寄せてしばらく放置される。葬祭でもあった日には往復2車線しかない道路の両側にびっしりと駐車するクルマの列が並び、その間の中央部を行き来するクルマが交互に通行しなければならない。そのため渋滞に拍車がかかる。
 最近では朝の出勤時とランチタイムのラッシュ時、ポンペイ唯一の商店街コロニア・タウンの要所に交通整理の警察官が立ち、手信号で渋滞するクルマの列をさばく姿が日常化するまでになった。「信号機皆無」がポンペイのひとつのシンボルだったが、近い将来それもなくなる日がくるかもしれない。

 新しい建物も次々と出現している。数年前、コロニアのスパニッシュ・ウォール(スペイン植民地時代の砦跡)近くに「Western and Central Pacific Fisheries Commission」(西・中央太平洋漁業委員会)の会館ビルが建設されたのに続いて、ミクロネシア連邦政府庁舎の至近地に、大統領、副大統領、国会議長の官邸が完成。そして今度は、ポンペイ州政府の空き地のあった所を活用して、2階建ての州政府新庁舎が間もなく竣工を迎える。 (ポナペ州政府新庁舎:筆者撮影↓)   ポナペ州政府新庁舎

 広々とした吹き抜け部分と中庭を 囲む回廊式の建物で、これができると単体としてはポンペイ最大(ということはミクロネシア連邦最大クラス)の建造物となる。これらはいずれも中国政府の援助によるもので、建設機器や資材、技術者や労務者に至るまで、すべて中国本土から調達され、建設された。
 中国といえば、ポンペイで唯一の英字新聞『KASELEHLIE PRESS』(2010年1月20日発行)一面トップ記事で、「ジョン・エーサ州知事が中国の会社とナンピル発電所の事業に関する珍しい契約に調印した」という見出しでその詳細が報じられている。記事によると、この発電所は80年前、日本人によって建造された水力発電所だが、これを中国・北京のUPAC(Universal Power Alliance Company Limited)という会社が修復、稼動させ、その電力をPUC(Pohnpei Utilities Corporation=ポンペイ公益事業会社)に1キロワット22セントで供給する計画という。調印は1月8日、州知事とUPACのゼネラルマネージャー、William Linとの間で交わされ、証人としてミクロネシア連邦政府のアリク・アリク副大統領が立ち会ったと、写真付きで紹介されている。同副大統領は昨年11月に北京を訪問しており、その際、中国政府側から2010年はミクロネシアから14名の奨学生を受け入れる旨、申し出があったことも伝えられている。中国との急接近がなにかと目立つ昨今だ。

 アメリカ大使館も、アメリカ大使館昨年秋、新築成って移転した。先にソケース・ムニシパル・ガバメント(ポンペイにある1町5市の地方自治体のひとつ)の公有地を借り受け、自前の大使館と公邸を建設した中国と似た手法で、ポンペイ有数の企業経営者から借地し、大使館と大使公邸を併設している。場所は、コロニア・タウンを外れてネッチ・ムニシパルに入った所だが、メイン・ロードに面した広大な敷地 にゆったりと建物が配されているのが印象的だ。(アメリカ大使館:筆者撮影→)

ちなみにミクロネシアには、他にオーストラリアと日本が大使館を置いているが、日本大使館は海岸に面した日本大使館共同ビルの3階(もちろんエレベーターはない)をリースし、しかも外来者の駐車スペースすらなく、訪問者の不評を買っている。大使公邸はクルマで7,8分離れたナンポンマルという所にある日系実業家所有の邸宅をこれもリースしている。(日本大使館:筆者撮影→) 
 今、ポンペイで最大のプロジェクトは、空港施設の整備拡張工事である。サンゴ礁の浅瀬を埋め立てて滑走路を800フィート(238メートル)延長するほか、関連施設の整備拡充を行う。この費用27億円は、日本からの援助によって賄われる。また、米国からの援助5,300万ドルによって既存滑走路工事にあたっており、来年(2011年)3月には完工する予定だ。これによって、ボーイング767型機の離発着が可能になり、日本だけでなく、韓国、中国からの直行乗り入れも期待できるとあって、ポンペイの経済発展、ミクロネシア連邦の産業振興、ひいては国家自立への追い風になるとの声が高まっている。しかし、最新の統計によるとポンペイにおけるホテルの室数はわずか160余しかない。これに対してボーイング767型機の座席数は767-400ER型機を例にとると240から300席。ANA国内線で使用している767型機でも216席はある。アパートメントの空き室を利用したとしても、収容能力の絶対数が大幅に不足している。太平洋島嶼国へのハブ空港としての位置づけを目論む政府要人もいるが、それにしてもホテル客室数の増設が767型機乗り入れの必須条件になることは間違いないだろう。(空港整備拡張工事案内板:筆者撮影↓)空港整備拡張工事案内板
 
外資導入法改訂の動き
 ポンペイ州における現行の外資法は2006年10月に州議会で可決され、同年11月から施行されている。その中には以下のような規定がある。
☆12室以下のホテル
☆トラベル・エージェンシー
☆ダイビング・ビジネスおよびツアー・ビジネス
☆タクシー・ビジネス、レンタカーを含むすべての運輸、輸送業
☆ビューティー・ショップならびに理髪店
☆ベーカリーおよびハンディクラフトなどの小売業
などの新規申請については認めない。
 これは、それ以前にあった規定より厳しいリストリクション(制限)が加えられている。ただし、この規定以外であれば、100%外資の事業は可能であった。外資導入に積極的だったジョニー・デイビット前州知事は、制限条件の多いこの法案に反対したと伝えられているが、州議会は圧倒的多数でこれを可決し、現在に至っている。
 ところがここにきて、再び法改正に向けての動きが出てきている。その理由は、昨年コスラエで行われた4州政府関係者合同会議の席上、「同じ国家なのに各州で外資法が異なるのはよろしくない。足並みをそろえる必要があるのではないか」との意見が出されたのが直接の契機とされている。しかし実際には、「規制の多い現行法規は自由主義経済を阻害し、ミクロネシアへの投資意欲を喪失させるもの」として、撤廃を求めるアメリカ政府の強い圧力が背景にあったからだと言われている。
 これを受けて、現在専門委員会で審議されている外資法改正案の要点は、昨秋、PVB(Pohnpei Visitors Bureau=ポンペイ観光案内所)のディレクターから入手したメモプリントによると、以下のような内容になっている。
 1)FIB(Foreign Investment Board = 外資委員会)を廃止し、今後は州政府経済局において許認可業務を行う。
 2)現行法で定める制限規制はすべて撤廃する。
 3)しかし、外資100%の事業は、弁護士など専門分野を除いて認めない。推奨される出資率は現地側60%以上、外資は最大でも49%を超えない範囲とする。
 4)資本金は10万ドル以上とする。
 これを一べつすると、現行法以上に外国人投資家の投資意欲を殺(そ)ぐ内容になっている。もし、この法案がこのまま可決、施行された場合、外資導入は現行に増して激減するのではないか。
 その理由の第一は、資本金最低限度額10万ドルの事業を起こすと仮定したとき、ローカル側は6万ドル、最低でも5万1千ドルを用意しなければならない。それだけの資金を保持している現地人がそうそういるとは思えない。政治家とか有力実業家をパートナーとするか、さもなければ事業を起こすにふさわしい土地・建物など不動産の所有者をゲットし、出資金に見合う不動産を充当してもらうか、いずれにせよ選択肢は極めて少ない。スノーランド設立時は、オルペットの名義を借りて土地を取得した関係上、彼を現地サイドのパートナーとして据えざるを得なかったことは前にも書いたことがある。そのために、後年、彼との人間関係に亀裂が生じた際、我々はさんざん翻弄された挙句、多大な犠牲と屈辱を受ける羽目になったのである。そこで、この方法もあるにはあるが、禁忌(タブー)とすべきであろう。
 そもそもポンペイに限らずミクロネシア連邦では、各州とも法律によって外国人の土地所有が認められていない。同国人同士の間でも、表向きは売買できない決まりになっている(実際は金銭のやり取りを伴って所有権の移転が行われている)。コロニア・タウンに限っては、日本の統治時代、日本人に占有されていたため、戦後、日本人が引き揚げた後、無人状態となった。このことから、政府の管理下に置かれることになり、州が島民にわずかな借地料を課して貸与するというシステムができた。したがって、コロニア・タウンにおける不動産取引は、借地権の譲渡(売買)、建物が建っている場合は借地権付き家屋の売買という形で行われている。
 このような状況下で、だれがどのようにして出資金に代わる不動産の価値を公正かつ厳密に評価できるだろうか。売買を禁じている物(土地)に評価額を付けること自体、違法行為になるのではないか。既存法との矛盾をどう解決するのかという問題と併せて、外資を投入しようとする者にとって懸念材料となるだろう。
 加えて、「外資49%以下」という規制は、外資投資者にとって相当なリスクとなる。たとえ2%の差といえども主導権はローカル側が握ることになるわけで、経営をめぐる意見の対立、物事を取り決める際など、常に不利な立場に立たされることになる。万一、係争に発展するような事態が生じた場合でも、ローカルは無料のリーガル・サービス(法律相談所)を使えるが、外国人は高額な費用を払って弁護士を雇わねばならない。根気と資力がいる。そして言葉と慣習の違いがある。その壁を乗り越えて闘うのは容易なことではない。
 そうした様々なマイナス要因を承知のうえで、なお投資をしようとする者は、ミクロネシアに何らかの強力なコネクションを持つ者か、専門的分野に属する個人事業か、特殊なケースのみになるのではないだろうか。
 かつてポンペイの観光産業の花形だったダイビング・ビジネスは、ここ数年の間にすっかり寂れてしまった。最多時4社あった日本人の経営するダイビング・サービスは、撤退、廃業、倒産などによって次々と姿を消し、現在、残っているのはアメリカ人が経営するホテル「The Village」が行うダイビング・サービス、ただひとつだけ。その結果、以前はポンペイを訪れる観光客の中心的存在になっていた日本人ダイバーの姿が、最近ではめっきり見かけられなくなった。2年ほど前から、時期は異なるが3名の日本人がポンペイでのダイビング・ビジネスを立ち上げようと試みた。しかし、FIBの制限規定に阻まれるなどして断念、あるいは申請を却下されている。
 そんななか、昨秋になって、マーシャルでダイビング・ビジネスを展開している日本人実業家が「コンサルティング事業」を目的に申請、ようやく外資100%で認可が降りた。この会社は、ポンペイ人が経営するホテルが始めるダイビング・サービスをコンサルティングするという名目、いわば現行法下での法規制の隙間を縫った格好で、近々、事業を開始する予定だ。

急がれる産業振興政策
  2003年に継続が決まったアメリカ政府からミクロネシア連邦政府への経済的自立支援、いわゆるコンパクトは総額18億ドル。毎年9,200万ドルが支給されている。だが、この20年間にわたる第二次経済援助も2024年には終了する。それまでにミクロネシア連邦は、真の意味で独立を果たすことが求められている。国内産業が全くといっていいほどなく、食品を含む生活用品の大部分を輸入に頼らざるを得ないミクロネシア連邦各州は、協調して国内産業の育成、とりわけ基幹産業として最も可能性が高いと目される漁業等の海洋産業、観光産業を根付かせることが最優先課題となっている。
 ポンペイ国際空港の整備・拡充もその一環だが、他方で前述したような排他的外資規制を州政府が行い、そのために観光客のための施設が整わない、レジャーを楽しめない、では観光客を呼び込むにしても寄り付いてはくれない。空港や道路をいくら整備拡張しても、それこそ「宝の持ち腐れ」になってしまう。国が州に対して強制力を発揮できないために両者間に一貫性がない、異民族連邦国家の弱点ともいえようが、せめて多大な援助を行っている国に対しては相応の優遇措置を講じて然るべきであろう。また、援助している側もそれを求めていいのではないだろうか。
 ODAも、元はといえば援助する側の国民の血税で賄われている。その援助が援助を必要とする国のために、国民のために、本当に生かされているのか否か。
 かつての米国内務省副大臣D・コーエンが言っていたように「納税者に説明するためにも十分なモニタリング」が不可欠だ。ミクロネシアのような連邦国家においては、それぞれの島(州)の特殊性がある。その点も配慮し、州政府(議会も含めて)の全面的な協力はもちろんのこと、援助案件の障害になることはあらかじめ取り除くという条件を付けることも忘れてはならないだろう。
 事実、昨年10月14日発行の『KASELEHLIE PRESS』が伝えるところによると、同年9月2日、ポンペイ空港で行われた改修工事鍬入れセレモニーの際、ナンマルキ(酋長)と並んでトラディショナル・リーダーの階位にあるネッチのイソナンケン、サルバドール・イリアルテが、「私の土地(法的にはネッチ・ムニシパル・ガバメントの公有地)に、私に断りもなく手を付けた」とクレームをつけたという。それとともに彼は「第二次世界大戦中、我々ポンペイ人は日本人によって不当な扱いを受けた」と、参列していた佐藤駐ミクロネシア日本大使を前に強い口調でスピーチしたと報じられている。また併せて、埋め立て用のコーラルを採掘しに行った五洋建設のスタッフがポンペイ人に「殺す」と脅迫を受けた事件があったことも明らかにされている。これは、州の土地管理局が、あるローカル企業に既に採掘許可を下ろしている場所を、さらに五洋建設に許可したというお粗末なミスが原因だった。

戦争の傷跡、今も…
 ところで話変わって、現在はハワイに住んでいるポンペイ人の間で有名な歌手、ミルス・サントスの持ち歌のひとつに、「KIHT KOROS ME EPWIKI」という歌がある。ポンペイ人であればほとんどの人が知っていて、またしばしば歌われる歌でもある。ポンペイ語独特の表記と発音を感じていただきたいために、あえて原語で表記してみよう。
Kiht koaros meh epwiki isiakan duemen
(キチ コロシ メ エプキ イシアカン トゥエメン)
Pahmen pwurewei wenemen mehla
(パーメン プロウェイ ウェネメン メーラ)
Ansou me se lel pohn sahpwo epwelen mwenge laud
(アンソウ メ セ レル ポーン シャープォ エプェレン ムェンゲ ラウト)
Pohn sahpwo mehn pohnpei kan kangada wahn nihn
(ポーン シャープォ メーン ポンペイ カン カンガタ ワーン ニーン)
Apwal laud me mie sohte sawas perail
(アパル ラウト メ ミエ ショウチェ シャワシ ペライル)
Inenen duhpekla KUSAI
(イネネン テゥペクラ クサイ)
我々みんなで179人
4人が戻り、6人死んだ
陸地に到着したとき、食料にとても困窮した
地上で私たちポンペイ人は、ニーンの実を食べた
困難を極めたが、何も助けてもらえなかった
クサイでは本当にお腹がすいた

 若干、説明を要するだろう。
 太平洋戦争中、ポンペイに駐屯していた日本軍によって、ポンペイの地方自治体のひとつ、キチの働き盛りの男たちが、コスラエの飛行場建設のため強制徴用された。彼らは食料も満足に与えてもらえず、ニーンと呼ばれる木の実を食べて飢えをしのいだという。総勢179人のうち6人が死亡して現地で埋葬され、4人は病気になってポンペイに戻された。残りの169人については、戦後になってようやくポンペイに戻ってくることができた、という出来事があった。
 歌はそのときのことを歌ったもので、徴用された者のうちのだれかが歌にしたらしい。後年、ミルス・サントスが一部手直しし、カセット・テープに収めてからポンペイ中で口ずさまれるようになった。
 嫁の祖父も徴用され、強制労働に服したひとりだったという。生前、子や孫たちに「コスラエでは、天秤棒の前後に砂が詰まった袋を3個ずつぶら下げて運ばされた。過酷な重労働だった」と、当時のことを語っていたという。これが原因で、腰を痛め、晩年はひどい腰痛に悩まされていたそうだ。
 この当時、キチは一時、女・子ども、老人だけの村落になり、日本兵の子を宿した現地女性も少なくなかったという。
 戦後60年余を経た今、さすがに大多数のポンペイ人は、この出来事を恨みに残しているとは思えない。だが、歌によって過去にそうした事実があったことは語り継がれている。そして、困ったことに、それがときに、日本人に対して都合の悪い立場に立たされたとき、自分のやったことへの正当性を主張する理由や言い訳として使われる。
 ポンペイは元来、伝承に生きる島だった。近代に入るまで文字文化がなかったために、草木を使ったローカル・マジシン(民間薬)の作り方やマジック、過去にあった出来事など、親から子、子から孫へと語り継がれてきた。古い時代には、歌や踊りに託され、それが今「伝統ダンス」として受け継がれている。「戦争」という異常な状況が、「軍」という特異な組織がなさしめた出来事が、いつしか「日本人がポンペイ人に対して行った迫害」として捉えられ、これからも語り継がれていくのかと思うと、現地に暮らす日本人として決して気分のいいものではない。只ただ、戸惑いを覚えるばかりだ。
 前述したポンペイ空港改修工事セレモニーでのイソナンケン・ネッチの発言も、この出来事を指していると思われる。ただ、彼の場合、最近、伝統的指導者が影響力を失い、伝統的形式上だけの存在になっていることへの反発、言い換えれば自己の存在感をアピールする狙いがあったのではないか、と大方のポンペイ人はみている。
 第二次世界大戦が終結した後、ポンペイにいた軍人はもちろんのこと、民間人も含めて、日本人はすべてアメリカ軍によって国外退去させられた。戦後も長い間、日本人はミクロネシアの島々に入ることは許されなかった。入国できるようになったのは、昭和も30年代に入ってからのことである。この間に、ポンペイに妻子を残して帰国した者は日本で再婚し、家庭を設けた。
 「ポンペイに行きたくても行けなかったと、父は言い残して他界しました。父の両親の眠る墓と、できれば異母兄弟を探し当てたいのですが」
 十数年前、スノーランドを訪れた日本人から協力を求められたことがある。新潟からやってきたというその男性は、「父はずうっとそのことを隠してきました。母にはもちろん、私たち子どもにも」と言って目を潤ませた。手がかりになる情報は「春木村(現在、ミクロネシア連邦政府のキャピタルが置かれているパリキルの日本統治時代の呼称)の入植地に家があった。近くには学校もあった。子どもは女の子だった」ということだけ。肝心のポンペイ人女性の名前も女の子の名前もわからないという。オルペットに協力してもらって探し回ったが、ついに分からずじまいだった。
 先年亡くなった元キチ・ロイ部落長のサトシ・ウネは、ポンペイに母とともに残った一人である。
 「お父さんは広島の人でした。私はお母さんを一人にして行くのが心配だったので、ポンペイに残りました。ダイトウア(第二次世界大戦)が終わってから、アイノコ、アイノコって、随分いじめられましたよ」と、述懐していた。「ダイトウア」と「アイノコ」という言葉は、今でもポンペイ語として使われている、いわば戦争の落とし語だ。
 ポンペイでコショウ栽培とレストランを営む植本盛社長は、ポンペイ人の母とともに日本に戻った。
 「日本に帰ってからは、土人の子って、囃し立てられて、悔しくて、よくケンカしたりしたものですよ」と、子ども時代を回想している。
 父親が日本に帰ってしまった後、ポンペイに残された妻子のなかには、父親の姓を名乗ることを由としなかった「隠れ日系人」が相当数いるといわれる。「自分らを捨てて日本に帰ってしまった」と、父親を憎むあまり、日本人嫌いになってしまった人もいると聞いた。
 戦争はその時代を生きた人々、とりわけ渦中にあった人々に深い心の傷を負わせただけでなく、戦争を知らない世代がほとんどになった今も因果を引きずっている。  (つづく)

茂田 達郎(しげた たつろう)
ジャーナリスト出身で本研究所理事。1990年頃からポンペイに在住し、92年には、滞在型ホテル「スノーランド」を建設。その間、ホテルの乗っ取りに合い、裁判勝訴、ホテル再建など様々な経験を積んで今日に至る。乗っ取り事件の経緯については、本誌の連載で紹介された。
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