以上3名は、フィジーにおける1987年、2000年のクーデタに関して一貫して批判的な態度をとってきた人々であった。また、であるがゆえにガラセ政権のフィジー人民族主義と手を結ぶ政策傾向をたゆまず批判してきた人々でもある。多民族主義を標榜し、政治汚職の一掃を唱えるという点で、バイニマラマの主張と一致している彼らが、2006年クーデタに対して理解を示していることは突飛ではない。むしろ彼らからすれば、彼らの軽視されてきた政策的方向性が、今回のクーデタを通じて所を得たという感覚を持ち得たと思われるのである。2006年のクーデタで副大統領職から不本意な形で辞任することになったラトゥ・チョニ・マンライウィウィは、以上のようなこれまでのクーデタを支持してこなかった層から今回のクーデタへの共感者が出現したこと対して、次のように総括している。いわく、今回のクーデタは、ガラセ政権によって疎外された人々――インド人の他、カソリック教会、数多くの市民団体、司法制度における不平分子などの少数派コミュニティの多く――から陰に陽に支持されている(56)。事実、ラトゥ・チョニが指摘した層のなかから、臨時政権が後押ししている人民憲章の作成へと参加していく人々が輩出されていく。たとえば、正式な議長のひとりには、カソリック教会のペテロ・マタザが参加を表明している(57)。
いわゆるガバナンスの問題を提起して2006年のクーデタは始められた。クーデタ実行者の側から「クリーンアップ・キャンペーン」と称されるこのミッションはいつ完了し、臨時政府は立憲的な政府へと政治的秩序を移行させることができるのだろうか。できうるかぎり早期に総選挙を開き、民主的国家へと復帰するよう国際社会からたびかさなる圧力を受けていることもあり、いまのところ2009年3月に総選挙が行われると臨時政権はほのめかしている。しかし同時に先の言明と矛盾するようだが、臨時政府は、総選挙の施行と民主主義への復帰を等式で結ぶ考え方を批判している。彼らによると、そうした形式的な形で民主主義を捉えるのではなく、具体的に民族差別のない社会を実現するための準備が完了した時点で総選挙を行うことが、真の意味での民主主義の実現のために重要であると主張している。そしてそうした社会実現の為のヴィジョンとして「変革と進歩のための人民憲章(People’s Charter for Change and Progress)」の作成を押し進めている(58)。
臨時政権側はこの憲章が選挙にも影響を及ぼすこと――具体的にはSDLの元議員は立候補できないようにするとか、民族区分を取り除いた選挙方法の導入など――をほのめかしているが、容易に想像がつくように、選挙の洗礼を受けても、選挙によって選ばれた議員から指名されたわけでもない成員にイニシアチブを握られて作成された文書がどこまで法的拘束力を持つのか疑問がある。また、メソディスト教会、大首長会議というフィジー人の伝統的社会と結びつきの深い機関を始め、複数の地方議会は軒並み憲章作成過程への不参加・不支持を表明している(59)。なにより先の選挙でフィジー人の8割の票を得ることに成功したSDLの参加を得るに至っていない。このように一般に開かれた協議の場を設けているとは言い難い状況では、憲章の作成に成功したとしても、どこまで一般人からの支持を期待できる文書たり得るかは闇の中である。
このように考えてみると、万人に受け入れやすい民族差別や政治汚職への批判を掲げて起こされた2006年のクーデタが、皮肉にも社会的分断を生み出していることもみえてくる。前節で述べたように、反対の声があがるサイドのベクトルが逆になったとはいえ、結局の所、フィジーにおける4度目のクーデタは、これまでと同様、フィジー社会のなかに分断を生み出しているのだ。前項で指摘したようにクーデタ実行者のイデオロギー的立ち位置が異なっているだけで、武力を通じた立憲政府の転覆という手段に訴えて自説を押し通そうとしているという意味で、本質は変わりないともいえる。いずれにせよこれまでのクーデタがそうであったように、今回のクーデタもフィジーの歴史の転換点のひとつとなるであろう。クーデタそれ自体の事件性のみならず、過去のクーデタを通じてつねに政権の座から追い出される側にいるという運命にあった労働党が今回は事実上実行者の側に肩入れしているのである(60)。
また、クーデタとは関係なく、政治家の世代交代もさらに進行している。野党の代表として幅広い支持を得ていたミック・ベッドスと、労働党の党首チョードリーは次回の選挙での政界引退を表明している。チョードリーを含め発言に揺らぎがあるものの、臨時政権に参画している閣僚はバイニマラマの公約に従うならば次回の選挙には立候補できないことになっている。ことに労働党は、草創期から関わってきた大物が相次いで引退し、次世代も充分に育っているとは言い難い状況にある。主たる支持層であるインド人自体の人口が減少していくなか、労働党は現状のままの組織であり続けるならば、その影響力・存在感は否応なしに下降線をたどっていくことになるであろう。
さらに今回クーデタの標的として暗黙のうちに含まれているフィジー人保守派にも変化が見られる。かつてフィジーの地で外来の制度である民主主義は花咲かないと述べてきた彼らのなかには、これまでのクーデタに関する見解からは一転させて、今回のクーデタでは民主主義的ルールの遵守を唱えている者もあらわれている。彼らの民主主義への肯定的な発言が失った政権の座を取り戻すための機会主義的言説である側面は確実にある。しかしそれ以上に注目しておきたいのは、フィジー保守派の言説には広い意味で民主主義以外の伝統的制度を活用して政治的運営を行っていこうとするような、これまでのクーデタ時には多少とも見受けられたような見解はいまのところ出てきていないことだ。2006年のクーデタの結果フィジー人保守派の多くがフィジー人史上初めて、クーデタを批判して民主主義を正当化する立場になったという状況の変化と相即してもいるが、同時に、民主主義か文化的制度かという二項対立で事態をとらえることは、民主主義に対して必ずしも好意的でない層においてもすでに現実的ではなくなっている状況を表しているのかもしれない。
以上がフィジーに特有の文脈であるとすれば、それ以外、より太平洋地域とも関連した変化の動向についても、目を配っておく必要がある。オセアニア諸国家においても国民国家の関係枠組みが変化しつつあり、今回のクーデタを通じて、たとえば軍事的にはビケタワ宣言が、無視し得ない形で存在していることが再度確認された。フィジーから他国へ軍事的介入を要請する動きはこれまでのクーデタ時にも見受けられたが、今回のそれにおいては具体的な条文が存在しており、オセアニア他地域には介入した前例があるため、軍事衝突がいっそうの現実感を持って語られていたのである。
以上のように、国内的、国際的な意味においてもフィジーを取り巻く状況はいやがおうにも変化している。そうしたなか、民主主義に基づく政治の運営という古くて新しい課題を巡ってフィジーの人々は厳しい舵取りが引き続きせまられ続けることになるであろう。
謝辞
この原稿は、第24回日本オセアニア学会及び太平洋諸島地域研究所での発表の一部をもとにしたものです。2006年12月のまさにクーデタ進行時に意見を交わすことのできたTarcisius Tara Kabutaulaka氏(イーストウェスト・センター)との会話も参考なりました。また、人名のカタカナ表記についてインド人のヒンドゥー系については小西公大氏(東京都立大学大学院)、ムスリム系については小牧幸代氏(高崎経済大学)からご教示頂きました。記して感謝いたします。
(1) 返還にいたる経緯については拙稿を参照のこと(丹羽典生 2007「フィジー諸島共和国における政治的混乱の分析に向けて――2006年12月5日のクーデタの発生前夜から臨時政権の確立まで」『パシフィック ウェイ』第130号)。
(2) The Fiji Times, January 5, 2007: 1
(3) このクーデタ容認発言を公表するまでの大統領の考えは不明確である。大統領が立場を明確に示さなかった背景には、大統領より伝統的地位の上では上位に位置する副大統領がクーデタに批判的であったため、彼の意向を汲んでクーデタ容認的な発言を差し控えていたという見解もある。
(4) The Fiji Times, January 5, 2007: 1
(5) The Fiji Times, January 5, 2007: 2。この発言は、大統領が80代後半にもなる高齢者で、病気の疑いがしばし取りざたされていることも背景にあると思われる。
(6) The Fiji Times, January 6, 2007: 1
(7) 彼は1987年にランブカ中佐がクーデタを起こした時、軍の司令官であった人物である。1987年、2000年のクーデタをつとに批判していたことで知られている。ガラセ政権の下院議長も務めていた。2000年のクーデタの際には、軍の側から臨時首相として提案されていた人物でもあった。
(8) 国民連立党の元議員サイヤド・ハイユーム(Sayed Khaiyum)の子息に当たる。ムスリムである。
(9) FIT(Fiji Institute of Technology)の前校長で事業家。2006年選挙の際、国民同盟党で立候補していた。
(10) 国民同盟党のメンバー。
(11) フィジー商業会議所の議長を務めていた人物。
(12) ラ地方出身の首長筋に属し、追放された上院の議員でもあった。
(13) Fijilive, January 9, 2007 ‘More interim ministers today’.
(14) 労働党の党員で、多党内閣の規定のもとガラセ政権ではエネルギー省を担当していた。
(15) ガラセ政権の閣僚で国家計画省担当大臣であった。SDLの党員でもある。
(16) 追放された政府野党の副指導者で、統一人民党の党員。メディア・パーソナリティとして知られていたが、2000年クーデタ直後のガラセ率いる臨時内閣にも閣僚として参加していた経歴を持つ。後に触れるラトゥ・エペリ・ガニラウは義理の兄弟にあたる。
(17) 鉱産資源局の地理調査主任であった。
(18) コロニヴィア研究所(Koronivia Research Station)の前所長である。
(19) Fijivillage News, January 9, 2007 ‘Mahendra Chaudhry Sworn in as Interim Govt Minister’, Fijilive, January 9, 2007 ‘Chaudhry takes up finance portfolio’.
(20) 国家計画大臣の職は、後に、ブネに移された[Fijilive, March 12, 2007 ‘Bune gets another portfolio’]。
(21) 丹羽典生 2007「フィジー諸島共和国における政治的混乱の分析に向けて――2006年12月5日のクーデタの発生前夜から臨時政権の確立まで」『パシフィック ウェイ』130号
(22) 彼はタヴェウニで生活していたため、実際の就任は、1月15日になった。
(23) ガラセが総選挙の時期を5月に前倒しにしたのは、創設間もない国民同盟党が足場を固めるのを警戒したためであるという説もある。また、クーデタの文脈においてメディアではあまり言及されていないが、ラトゥ・ガニラウは、ガラセ内閣で大臣を務めていたラトゥ・ナインガマ・ラランバラヴ(Ratu Naiqama Lalabalavu)と、トヴァタの大首長位トゥイ・ザカウ(Tui Cakau)をめぐって争った末、敗れてもいる。ラトゥ・ガニラウ自身はタイトルに執着がなく、人々の要請に従って首長位を争ったという発言をしている。
(24) 厳密にいうとブネはクーデタ直前の2006年12月4日に労働党から除名されていた[Fijivillage News, January 11, 2007 ‘Bune Says Chaudhry Right Man for the Job’]。原因は、多党内閣の規定に従ってガラセ内閣の閣僚に任命されていたブネが、政権運営のあり方をめぐって党の指導者チョードリーと対立したためであるという。
(25) Fijivillage News, January 9, 2007 ‘It’s a FLP/NAP coalition-Qarase’
(26) Fijilive, January 8, 2007 ‘Bune surprised with offer’, Fijilive, January 9, 2007 ‘Strange twist of destiny: Chaudhry’.
(27) Fijilive, January 9, 2007 ‘FLP, NAP accused of benefiting from coup’.
(28) Fijilive, January 16, 2007 ‘New Budget for 2007’; ‘Interim Cabinet meets today’.
(29) Fijilive, January 18, 2007 ‘Commander announces establishment of Fiji independent Commission’
(30) Fijilive, January 29, 2007 ‘Ali to lead investigation team’。アリーはガラセ政権が関与していたと噂される農業関係の汚職(agricultural scam)を捜査中の2004年、捜査長の地位から解任されていた経歴の人物である[Fijilive, February 18, 2007 ‘Anti-Corruption Unit to brief on dirty cops’]。
(31) Fiji Sun news, February 4, 2007 ‘AG brings in new changes’
(32) Fijilive, April 19, 2007 ‘Anti-corruption laws established’。法令は、フィジー反汚職独立委員会及び贈収賄防止令(Fiji Independent Commission Against Corruption and the Prevention of Bribery decrees)とされた。そのため、反汚職委員会は、フィジー反汚職独立委員会(略称FICAC)とも呼ばれている。
(33) The Fiji Times online March 29, 2007 ‘Anti corruption unit raids PWD’
(34) Lal, Brij 2007 ‘‘This Process of Political Readjustment’: Aftermath of the 2006 Fiji Coup’, Fijian Studies: A Journal of Contemporary Fiji 5(1): 100-101.
(35) Fijilive, January 16, 2007 ‘Justice Gates is Acting CJ’、 Fijivillage News, January 17 ‘Interim AG stresses RFMF/interim govt will not interfere in judiciary’
(36) Fijilive, January 17, 2007 ‘Judiciary urged to co-operate’
(37) Fijivillage News, January 19, 2007 ‘23 State CEO’s terminated’
(38) Fijivillage News, January 22, 2007 ‘Former CEOs appointed as advisors’
(39) cf. Fijilive, February 16, 2007 ‘10 of 23 CEOs apply for PS posts’
(40) Maika Bolatiki, Fiji Sun online, February 10, 2007 ‘the ‘way backward’ for workers’ right’
(41) cf. Maika Bolatiki, Fiji Sun online, February 15, 2007 ‘Workers rights must be respected’
(42) The Fiji Times online, July 11, 2007 ‘Finally, good sense prevails’
(43) 2006年の選挙の前にガラセ政権が以下で触れる公共部門組合連合と結んでいた協約のこと。給与水準の向上に関する条項があったという。
(44) The Fiji Times online, July 11, 2007 ‘Finally, good sense prevails’
(45) Biman Prasad 2007 ‘The undoing of trade unions’ The Fiji Times online, August 30.
(46) Fijilive, March 17, 2007 ‘Army has role to play in strike: Teleni’
(47) メンバーの構成は、以下の通り。ヴァヌアツの副大統領兼外務大臣サト・キルマン(Sato Kilman)を頭として、サモアの天然資源環境大臣ファウムイナ・ルイガ(Faumuina Luiga)、パプアニューギニアの元高裁判事アーノルド・アメット卿(Sir Arnold Amet)、オーストラリア軍のピーター・コスグローヴ将軍(General Peter Cosgrove)[Fijilive, January 29, 2007 ‘Democracy in 5yrs: Bainimarama tells EPG’]
(48) EPG 2007 Forum Eminent Persons’ Report Fiji
(49) Fijilive, January 29, 2007 ‘Democracy in 5yrs: Bainimarama tells EPG’
(50) EPG 2007 Forum Eminent Persons’ Report Fiji, The Fiji Times online February 21, 2007 ‘Forum wants quick elections’, Lal, Brij 2007 ‘‘This Process of Political Readjustment’: Aftermath of the 2006 Fiji Coup’, Fijian Studies: A Journal of Contemporary Fiji 5(1): 114-117.
(51) Fijilive, April 13, 2007 ‘Interim PM wants embassy barricades out’。バイニマラマはアメリカのヴァージニア工科大学で起き銃撃事件への哀悼を理由に、4月19日この提案を撤回した[Fijilive, April 19, 2007 ‘US embassy keeps security barrier’]。
(52) 何を根拠に彼を好ましくない人物と判断下したのかはあきらかにされていない。臨時政権がこの行動を起こした背景には、クーデタに関するニュージーランドの否定的見解が背景にあったと思われる[The Fiji Times online, July 14, 2007 ‘Fiji expels NZ High Commissioner’] 。
(53) 彼女は前出の判事ナズハット・シャミームの姉に当たる。
(54) Paulo Baleinakorodawa, Father Kevin Barr and Semiti Qalowasa 2006 ‘Time of uncertainty, opportunity’ the Fiji Times, December 19
(55) Fijilive, March 21, 2007 ‘Bainimarama’s coup may ‘end all coups’’、The Fiji Times online, March 24, 2007 ‘It’s bad or worse: Nandan’
(56) Ratu Joni Madraiwiwi, 2007 ‘Looking back at the Fiji coup six months on’ The Fiji Times online June 11,
(57) Fijilive, October 10, 2007 ‘Mataca, Bainimarama to head council’
(58) The Fiji Times online, October 22, 2007 ‘Military must back off on charter’。また2007年4月付けの同憲章の草稿は、Building a better Fiji for All through a People’s Charter for Change & Progress.としてネット上に掲載されている[Fijilive.com]。憲章の作成者は、ニュージーランド在住で、アジア開発銀行の上級エコノミストでもあったジョン・サミー(John Samy)とフランシス・ナラヤン(Francis Narayan)であると目されている[Lal, Brij 2007 ‘‘Shutting Up’ and ‘Shutting out’’ Turaga: 69]。
(59) The Fiji Times online, June 20, 2007 ‘Questions for the charter’;September 12, 2007 ‘About the People’s Charter’; September 27, 2007 ‘The way of the Charter’
(60) 厳密には多党条項のもとガラセ政権にも労働党議員が数名参加していた。ここで指摘しているのは、2006年のクーデタでは労働党主流派がクーデタ実行者に対して融和的な態度を取っていることを指している。