ソロモン諸島紛争の一断面
-ハロルド・ケケを巡って-
1.はじめに
なお、本稿はハロルド・ケケに焦点を当てて論じるため、関係当事者にとって表現に不足な部分が出る可能性がある。筆者の意図するところは、一定の人物・グループを善悪で色分けすることではなく、今後の紛争解決→平和構築→生活の安全に伴う国の発展を願う者として、事実関係とその背景を明確にしておきたいところにあるので、予めお断り申し上げておきたい。
2.ハロルド・ケケに関する不可解な取扱い
ハロルド・ケケに関する外国報道機関の報道に一定期間偏りがあったと確信を深めたのは、皮肉なことに、8月10日の投降劇報道であった。なぜなら、ハロルド・ケケという人物が、ソロモン諸島国という国の行く末を全く考えない自己中心的な人物に変貌し、報道でのイメージの如く「独裁者」か「本当の悪人」となっているのであれば、Y・サトー首相特使の説得に応じるはずはなく、投降せずに徹底抗戦することが十分に可能な状況であったからである。投降に際しての交渉の裏側は現時点では明らかにされていないが、首相特使を人質に取ることも殺害することも可能であった。またY・サトー首相特使との信頼関係が構築されたていたとしても、投降すれば何者かによって殺されてしまう可能性も高い。仮に徹底抗戦した場合には、最終的な結果は別としても、豪州・ニュージーランド等を主体とする地域平和維持軍(Regional Assistance Mission to Solomon Islands:RAMSI)も含め、更に相当数の死傷者が出ることは関係者なら容易に推測できる状況であったにもかかわらず、みすみす死地に向かうが如く投降したのはなぜなのだろうか。
本来、「(武力を伴った)民族紛争」と「クーデター」は、因果関係があったとしても政治的には全く別のカテゴリーとして整理すべきものである。しかし、紛争が長期化し政府の統治能力が弱まっている場合や、今回のソロモン諸島国の事例のように、クーデターを首謀した者が、政権のトップにつかない場合、曖昧に取り扱われることがある。
「あまり報道はされていない事項かも知れないが、その年(2000年)の10月に署名された『タウンズビル和平協定』の草稿は、MEFのスポークスマンであったアンドリュー・ノリが作成したものである。それをソガワレ政権は殆ど修正せずに、つまりマライタ人に有利な形で合意文書として提示した。武力抗争が激化していたIFM(GRA)とMEFの和平合意文書の草稿が、MEF側のアンドリュー・ノリによって作成され、且つガダルカナル島住民に不利な内容の文書を突きつけられたのだ。ハロルド・ケケに『何故署名しないのか』と迫っても、サインできるだろうか。これは内容以前の問題である。この行為は、『我々の母なる土地の公正なる取扱いを望む』と主張し続けていたハロルド・ケケの態度を硬化させるのには十分だったと考える」
3.和平交渉に関するハロルド・ケケの動き
一方ハロルド・ケケは、出身地域であるウェザー・コーストを拠点として闘争を続けていた。しかしハロルド・ケケは、武力闘争のみに明け暮れていたわけではなく、2003年8月に投降するまでの間、彼なりに事態収拾を模索していた(7)。その中には、正式に、ハロルド・ケケ側がソロモン政府に対して和平交渉を申し入れたものもあった。それが、2002年6月の「ミステリー・ワンウィーク」と呼ばれる時期である。またその後についても、今後の裁判の推移を見守る必要があるものの、ケケ自身が投降を決断するに至った点から考えても、事態収拾に向けての水面下での交渉が模索されていたものと思われる。
この件については、ソロモン諸島国国会においても国際平和監視団(International Peace Monitoring Team:IPMT)との関係で “One Week’s Mystery” と称される質疑が行われている(8)。この質疑では、同年の国政選挙で選出されたY・サトー議員が主に質問に立って追及を行っている。そこで筆者は、本稿で公開することに了解を得た上で、筆者の持つ疑問点も含め、当事者である同議員に背景を含めてインタビューを行った。
ここからは、2002年6月初旬にハロルド・ケケ側は和平交渉を望み、政府側が交渉の席に着くのを拒んだという事実が浮かび上がってくる。ただ政府側が、ケケのテリトリーに出向く危険性に配慮して、慎重な対応を行ったという見方もできるかもしれない。ケケと面識のあるY・サトー同議員でさえ、文字通り命懸けでの交渉に臨んでいるのである。好ましくないイメージだけを持っている者たちが、疑心暗鬼のまま会って協議に臨むのは大変なことである。同議員が追及した「更にその奥にあるもの」は今後の裁判の過程・結果を待つほかはない。
部族長は、ケケの立場に立つ中で、Y・サトー議員とケケたちとの間を仲介したのである。
4.まとめ
第二次世界大戦後に独立した太平洋島嶼国における「過去20年間に発生した紛争の共通点」として、2000年6月に開催された大洋州地域フォーラム安全保障委員会(FRSC)に提出した論文の中で、ロン・クロコーム博士は4つの要素を指摘している。それは、「1.民族的差異、2.土地問題、3.経済的格差、4.紛争を公平に満足いくように解決する政府能力への信頼の欠如。権力を持ったものは、政治腐敗か非効率のどちからに偏る。そのため、法は無視され、安全は破壊される」(9)という4点である。そしてソロモン諸島国で発生した「ガダルカナル紛争」もまさにこのカテゴリーに入るものとして位置づけられている。
歴史的に見れば、わずか150年前の江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本においても、新しい国の有り様を巡って各地で多くの戦いが発生し、多くの血が流れた。幕府、薩摩・長州藩連合、そして新政府。ソロモンにも政府があり、GLF、MEFが出現した。異なるのはGLFとMEFが、未だお互いの過去を清算して利害を調整し、新しい国造りをしようという目標を共有していないところである。親族を殺された人々にとって、その事件を忘れることはできないだろう。その恩讐の念を正面からソロモンという国の政府が理解し、丁寧に解決することにより、今回の紛争で命を落としていった人々の死が無駄でなかったといえるようになるのではないかと考える。人々が武器を取ることなく、多くの痛みを乗り越えてもう一度 “Happy Isles”(11)と呼ばれる国を創造していくことを願ってやまない。そしてそのためには、今回、投降し逮捕されたハロルド・ケケから、彼の体験してきた事実関係を闇に葬ることなく余す所なく聴取し、同時に相反する立場の人々の声を聴取する必要性を強く感じている。ハロルド・ケケは時代が求めて生まれてきたのかもしれない。
「約5年間続いてきた国内の武力紛争により、ソロモンという国は計りしれない大きなダメージを受けてしまった。私達はこの哀しい事件のひとつひとつを忘れることなく教訓として今後に活かすことを考える必要がある。誤解を懼れずに言えば、大洋州地域で発生したクーデターは、ソロモンにしてもフィジーにしても、社会システムから落ちこぼれた人達の行動という共通点があったのではないかと思う。この点も胸に刻み、伝統と慣習、グローバル・スタンダード下の制度というどちらも捨象しえない現実の中で、如何に『法と秩序』を構築していくかが大きな課題である。ソロモンの人口の半分は、日本で云えば未だ中学生以下の年齢である。ソロモンという国が、将来、真の独立国となることができるよう頑張っていきたい。また、多くの日本人の方々にも理解してもらえるよう努力していきたい」
ソロモン初の日系国会議員であり、紛争終結と今後の国造りに向けて大きな役割を果たしているY・サトー議員には、昨年10月と本年1月の訪日中に、超多忙な日程の合間を縫ってインタビューに応じていただいた。本稿で初めて明かされた様々な真相はもっぱら同議員のご厚意によるものであるが、筆者の力不足でそのすべてを的確に表現できなかったかもしれない。失礼な質問や疑問に対しても、嫌な顔ひとつせず(寧ろニコニコと)丁寧に応じ、時に深夜まで計十数時間も筆者につきあって下さったY・サトー議員には心より御礼を申し上げたい。また同議員発言は筆者による要約であり、不適切な表現や誤った記述があった場合は、すべからく筆者の責任に帰すことを念のため申し添える。
(2004年1月脱稿)