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144-太平洋・島サミットとはなにか

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太平洋・島サミットとはなにか

 日本の対島嶼諸国外交が目指すもの

小林 泉 (大阪学院大学教授)


安倍総理がオセアニア諸国を歴訪

 去る7月、安倍晋三総理が豪州、ニュージーランド(NZ)、パプアニューギニア(PNG)3国を巡るオセアニア歴訪を実現させた。我が国の総理による太平洋島嶼国訪問は、1985年に中曽根総理がPNG・フィジーの2ヵ国を訪問して以来、なんと29年ぶりのことだ。この度のPNG訪問の目的や意義についての考察は、別の紙面に譲ることにして、ここでは太平洋島嶼諸国との関連で話を進めていきたい。
 太平洋島嶼諸国とは、太平洋諸島フォーラム(PIF:以下フォーラムと略記)加盟の14島嶼国・地域を指しているが、そのうちの1ヵ国だけ、しかもPNGという他の諸国からは突出した国土と資源を有する国を訪れたとて、必ずしも地域を代表する国を訪問したことにはならない。とはいえ、この度の総理のPNG訪問は、紛れもなく島嶼地域への国家的関心が高まった結果だと言えるし、さらに、総理官邸や外交当局がPNGはもちろんのこと、周辺島嶼諸国への理解度を一段と深める機会になったのは間違いない。日本が3年ごとに開催している島嶼諸国との首脳会議「太平洋・島サミット」の開催意義も、ますます大きくなってくる。
 マスメディアにおいても、島嶼地域がらみの報道が増えているのがここ数年の現象だ。例えば、2012年5月に開催された「第6回太平洋・島サミット」では、私自身が驚くほどたくさんのメディアが報道した。そして、幾つもの新聞が「海洋覇権 中国を牽制」「中国の海洋進出を警戒」といった見出しを掲げ、米国の会議初参加やフィジー不参加の理由さえも、中国の太平洋進出に結びつけた記事を書いたのである。実際に、今回の旅で豪州を訪問した安倍総理は、保守連立政権のアボット首相と話し合った重要課題の一つが、「アジア太平洋の海洋を巡る安全保障に関する協働」についてだった。当然のこと、昨今の中国の動きを意識してのことである。
 確かに近年、中国の海洋進出には目を見張る。東シナ海、南シナ海、そしてそれに連なる太平洋を巡る国際情勢に大きな影響を与え、太平洋島嶼を取り巻く国際環境を激変させている。かつて「英連邦の内海」「穏やかな楽園地域」と言われた平和なイメージは、いまではいささか現実とはかけ離れてしまった。広大な海洋に散在する島々をめぐって、大国間の思惑がさまざまに絡み合い、錯綜する戦略の海と化しつつあるからだ。そこでマスメディアは、こうした太平洋情勢に目を向け、もっぱら中国や米国の太平洋動向だけをセンセイショナルに取り上げる。まず人目を引く見出しを作れるか否かを第一に考える新聞記者の習い性からすれば、こうした記事の作り方は当然なのかもしれないし、関連して島嶼地域への関心も高まるのだから結果オーライだと言えるかもしれない。だが、日頃から島嶼をめぐる国際関係の変化をウオッチしている私たちにしてみれば、大国の影響を受けて島嶼国内部や島嶼国間に何が起こっているのかについても、きちんと見て欲しいと思う。
 というのも、新聞記事だけを読んであれこれ発言する物知り顔の政治家や官僚などが出てきて、政府の政策決定に悪影響を及ぼすことになると困るからである。例えば、舛添要一参議院議員(現東京都知事)は、日曜朝のテレビ政治討論番組(2012年5月27日/新報道2001)で、「太平洋の海洋資源は重要で、中国も積極的に進出している。だから私は、太平洋の島嶼地域の重要性を何年も前から指摘し続けてきたのです」と発言。自民党の山本一太参議院議員(現内閣府特命担当大臣)は「島サミットはそもそも、国連での日本支持票を集めるために始めたんですよ」と自信たっぷりに語っていた。
 それを聞いていて、「まったく、よく言うよな~」と思ったものだ。何年か前のこと、かつて国際政治学者だった舛添氏は、私が向けた島嶼諸国の話にほとんど関心を示さなかったし、外務副大臣を経験したこともある山本氏は、日本が国連安保理の常任理事国入りを国策として目指しはじめる前から島サミットが行われていた事実さえ知らなかったような発言だった。それにしても、「テレビに頻繁に登場する評論家や政治家という人種は、新聞記事程度の知識で堂々と知ったかぶり発言できる特殊技能者なんですね」と思うばかりだ。外交通を自認する二人の国会議員の認識がこの程度だから、普通の日本人が島サミットのなんたるかを知らなくでも仕方ない。
 そもそも、一般の話のレベルでは、それほどの厳密性は必要とされないのだから、報道量が多ければ、それだけで価値ありと考えて良いかもしれない。その内容に多少の甘さや違いがあったとしても、とにかく島嶼諸国に関わる諸問題があれこれ話題にされただけで、充分に喜ばしいことなのだろう。なにごとも正しい理解は、まず関心を持って追究の目を向けることから始まるのだから。

 とはいえ、日本の島嶼国対応や島々への政策がどうなっているのか、あるいはこれからの日・島嶼諸国関係のあり方を考えようとするならば、「太平洋・島サミット」とは何なのかをきちんと理解しておく必要がある。ここには日本の対島嶼国外交への姿勢や政策が集約されて表れるからである。そこで、ここでは島サミット開催に至る背景や切っ掛け、さらには当時の政府の狙いが何処にあったのかについて私の目に映った範囲の実情を述べるとともに、これからの島サミットのあり方を考察してみたい。

太平洋に政治アクターが出現
 まずは、1970年代の初頭にまで遡ろう。日本はそのとき既に、独立を果たしたサモアやフィジーなどへの個別的な政府開発援助(ODA)を始めていた。しかし、旧日本統治領だったミクロネシアは、未だ国連の信託統治領として米国の管理下にあり、ソロモン諸島やギルバート&エリス諸島(現キリバス共和国・ツバル)なども、英連邦の植民地だった。よって、外交対象となる国は、わずかに4ヵ国(サモア、ナウル、トンガ、フィジー)にすぎなかったのである。
 こうした地域事情ゆえに、南の島々といえば、第二次大戦時の「悲惨な激戦地」か、それとは真逆の「南海の楽園」といった両極端のイメージや知識が日本人の一般認識だった。外務省の担当部局ですら、ほとんどこの程度の域を出ていなかったように思う。1979年、大平正芳総理が構想した「環太平洋連帯構想」には、真ん中の島嶼部分が抜け落ちていたが、これもこうした認識度合いのせいだったろう。70年代とは、島々を国際社会における政治アクターとして意識できる時代ではなかったと言っていい。
 だがそれ以降、ポツポツと2、3年おきに太平洋に独立国が誕生していった。そしておおかた今の国数が出そろった1985年、中曽根康弘首相が域内大国であるフィジーとパプアニューギニアを歴訪したのである。2ヵ国合わせてわずか一泊の旅だった。これ以来、今回の安倍総理まで、日本の首相による島嶼国訪問はなく、それ以前には、1980年1月に大平首相が豪州、NZからの帰途にPNGに立ち寄ったことがあるのみだった。ただ、その年の12月に大平総理が急死したために、島嶼諸国との特筆すべきその後の政治的接近は見られなかった。ちなみに、中曽根首相のオセアニア歴訪には、安倍晋太郎外務大臣の秘書官として安倍現総理も同行した。
 当時を振り返ると、もちろん中曽根首相は、唐突に島行きを思いついたわけではなかった。政治アクターとして島々の存在を、はっきりと知らしめられる幾つかの出来事に出会っていたのである。
 その一が、太平洋の真ん中から突如沸き起こった猛烈な日本非難だ。それはロンドン条約に基づいて、マリアナ海溝に原子力発電所から出た低レベル放射性廃棄物を試験投棄する日本政府の計画が発覚したからだった。海洋の何処にも配慮すべき政治アクターなどなかったはずなのに、一斉に上がった予期せぬ抗議の合唱に政府はビックリ仰天、1980年のことである。
 大平首相を引き継いだ鈴木善幸内閣の中川一郎科学技術庁長官は、「ロンドン条約に基づいている」とか「あくまで試験投棄ですから」と言い訳したが、抗議の声は一向に収らず、翌年のフォーラム年次総会では、日本を非難する共同コミュニケが採択された。さらにその次の年(1982年)、ハワイの東西センターを訪問した鈴木首相は、「平和の海・自由の海・多様性の尊重・相互依存と相互理解・開かれた海の5原則をもって、太平洋連帯を進めたい」と講演した。これは鈴木・太平洋ドクトリンと呼ばれたが、この発言が島嶼諸国による日本への失望感をさらに強める結果になった。
 というのも、鈴木首相の提唱したドクトリンは、明らかに大平首相の環太平洋構想をそのまま受け継いだだけの内容で、太平洋の中抜きだと言われた構想への追加説明もフォローもないままだったからである。核廃棄物の海洋投棄に抗議する島々の声を全く反映させないままに平和の海を語っても、島嶼地域の人々はしらけるばかりだ。
 島々から寄せられる抗議や非難は、その後も続いた。だから後継の中曽根首相は、就任時から太平洋中心部にある政治アクターの存在を意識せざるを得なかったのである。1984年9月、元日本領だった独立前のミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国、パラオ共和国の三つの自治政府から、3人の大統領がそろって総理官邸を訪ねた。このとき中曽根首相は、これから誕生しようとする新しい国々のリーダーたちに向かって「太平洋諸国の皆が反対するのであれば、核廃棄物投棄の強行はいたしません」と発言するとともに、新国家の建国へ向けて惜しみない協力を約束したのである。

 こうした経緯が、日本の首相による島嶼国認識を一気に高めさせた要因になった。そしてこれが、信頼回復への思いを込めた島嶼国初訪問へと繋がって行くのである。歴代の首相を振り返えってみると中曽根首相は、島嶼諸国の存在を外交対象の国家群としてきちんと捉えた最初の総理だった。それが1987年1月、倉成正外相がフィジーのフォーラム事務局で公表した日本の対太平洋島嶼政策、すなわち「独立性・自主性の尊重」、「地域協力への支援」、「政治的安定の確保」、「経済協力の拡大」、「人的交流の促進」の5原則となって結実する。これは後に倉成ドクトリンと呼ばれ、明確に意識された日本の対島嶼政策の始まりとされている。

首脳間の交流がない日本
 こうして島嶼地域は、しっかりと日本外交の視野に入った。1970年代には全体の0.5%以下だったこの地域へのODA拠出も、80年代に入ると0.7%、さらに1.0%へと急増し、島嶼諸国の日本に対する信頼度も高まっていった。しかし中曽根以後、首相はもちろん外務大臣の島嶼国訪問も実現しなかったのは既述のとおりだ。島嶼国の首脳が来日した際に、総理に面会する機会があっても儀礼的会談で終わることが多く、首脳同士で島嶼地域の問題を話し合う機会は、ほとんどなかったのである。
 豪州、NZは、同じフォーラム加盟国として毎年顔を合わせているし、イギリスは英連邦会議や南太平洋委員会(SPC)での交流がある。米国やフランスもSPCのメンバー国であり、そのうちの米国はハワイの東西センターを通じて、様々に太平洋島嶼との交流を展開していた。米国は、信託統治領ミクロネシアの施政国だったから、ミクロネシア3国との深い関係が続いていた。そして1990年10月、ジョージ・ブッシュ大統領は島嶼諸国首脳を一堂にハワイに招き、米・島嶼首脳会合を実施したのである。これでポリネシアやメラネシアの国々が、一気に米国に近づいたようにも思えた。
 こう見てくると、島嶼に関わる先進国の中で、首脳レベルの交流機会を持たないのは日本だけになる。5年にわたって首相を務めた中曽根以降、せいぜい2年かそれ以下の在任期間でめまぐるしく代わる日本の首相に、島嶼国を訪問せよというのは現実的には無理な要求かもしれない。しかし、日本のトップが、海を共有する島嶼諸国の動向にこのまま無関心でいて良いはずはなかった。
 日本は、フォーラムの年次総会後に開催する「域外国対話」が開始された1989年以来、毎年欠かさずに政務次官(近年は、副大臣か政務官)クラスを派遣し、倉成ドクトリンに基づいた行政レベルでの島嶼国対応を淡々と実行していった。そのため、島嶼諸国の日本への好感度や期待値は着実に高まっていったのである。しかしその一方で、日本側からの島嶼国への関心は、中曽根時代から徐々に下降線を辿っていたと言っていい。そこで私は、「諸外国に比べて、日本は島嶼地域への関心度が低い。もっと国家的な目を向けなければいけない」と政治家にも官僚にも、会う人ごとに言い続けた。だが、そのときの反応はと言えば、「太平洋島嶼と日本の間では何が問題なの? 上手くいっているのならば、今のままで良いじゃないか」というものばかり。両者間に大きな政治的課題はなく、目立った経済関係も成立していない。いわば先進国の責任として、ODA拠出の対象地域であるだけの関係性であれば、現状でも十分良くやっている方だ、というのが大方の見方だったのである。

 だが私は、そうは思わなかった。今トラブルがないことが、永遠の平和と安全を約束するものではない。太平洋はこれまで、諸大国が進出、展開していくスペースであり、覇権を競い合う活動の舞台となってきた。その役割は、これからも本質的には変らないかもしれない。だが今日の太平洋は単なるスペースではなく、小さいといえども複数の政治アクターが存在する場所になった。ならば太平洋に浮かぶ日本にとって、これら海を共有する島嶼諸国との連携や連帯は、日本の将来的発展と安定のための必須条件になる。逆にいえば、島嶼諸国との連帯を深めていかない限り、安定した日本の未来は描けない。そのためには、何か大きな課題や問題が出現する前に、島々との信頼の絆を強固なものにしておくべきだ、と考えていたのである。

評価された日本外交
 1996年、国連安保理の非常任理事国選挙で、日本はアジア枠をめぐってインドと争った。結果は、142票対40票と大差を付けて日本が勝利したが、ここに至るまでにはいつもながら様々なドラマがあったはずだ。
投票結果から見て、そのドラマとはあまり関係がなかったようにも思えるが、太平洋島嶼でも、これに関連する出来事があった。前年のフォーラム年次総会の終わりに採択された共同コミュニケの第46項に、「フォーラムは、来年の国連での非常任理事国選挙では日本を支持する」とあったのだ。コミュニケに日本支持の一文が明記されたことは、日本政府にとって予想外だった。日本は、直接的に支持要請した覚えがなかったからだ。このとき、フォーラム加盟の14島嶼国・地域のうち、国連の加盟国は8ヵ国、つまり国連での票数は8票にすぎなかったが、これでも競り合ったときは大きな助けになる。だが、それよりも日本政府を喜ばせたのは、要請もしないのに日本支持を表明してくれた事実だった。それまでの島嶼諸国への外交姿勢と実績が、評価されてきた証しに他ならないからである。
 あるとき私は、この件について外務省の大洋州課長と話し合った。正確な文言は覚えていないが、記憶ではおおよそ次のようなやりとりだったように思う。
「コミュニケでの日本支持声明はとても嬉しいことでした。彼らの好意に応えるために感謝を表わすには、どんな方法が考えられるでしょうかね?」との課長の問いに、「島嶼国の首脳全員を日本に招待して、総理から謝辞を述べればいい。この機会を首脳会議にすれば、これまでなかった日本と島嶼諸国との首脳交流が一気に実現しますよ」と私は答えた。
 この件に関して、課長と私の会話はこの日限りだった。だが、これがやがて「第1回太平洋・島サミット」となって実現する。島サミットの実施が決まったとき、私は喜びを感じる前に驚いた。というのも、私のアイディアに課長の反応は必ずしも肯定的ではなかったし、なにより外務省内に幾人もの十分な理解者がいるとは思えなかったからだ。これを現実の政治イベントにまで仕上げた担当課長の手腕と外交センスの良さには、敬意を払うばかりである。なにしろ、この島サミットの開催で、その後の日本の対島嶼国外交が飛躍的に発展していくことになるのだから。
 とはいえ、この首脳会議開催を政府が決断するにあたり、外務省や首相官邸内で多様な議論が沸騰したことは想像に難くない。核燃料搭載船の太平洋通行に反対の声をあげる島嶼諸国は存在していたが、それ以上の日本と島嶼諸国の間に横たわる具体的な懸案事項があったわけではない。さらに、複数国家の首脳に呼びかけて、日本の主催で会議するといった政治イベントの前例はほとんどなかった。それでもこの困難なアイディアが実現したのは、それ以前に民間財団が実施したある会議モデルがあったからだと私は信じている。実のところ私自身も、その時の会議をイメージしながら首脳会議開催の意義をあれこれと語ったのである。
 その会議とは、1988年8月に2日間にわたって笹川平和財団が東京で開催した「太平洋島嶼国会議」のことだ。これには、フォーラム加盟の10島嶼国の大統領や首相、そして豪州、ニュージーランドからも政府代表が参加した。会議の議長は、前年に外務大臣として倉成ドクトリンを発表した衆議院議員の倉成正が務めた。日本の首相は中曽根から竹下登に代わっていたが、新しい政権も官房長官の小渕恵三を送ってこの会議の動向をしっかりとウォッチしていた。こうした布陣で開催された日本と島嶼国の首脳会議は、主催が民間財団だったとはいえ、まさに今日の島サミットの様式そのものだったのである。
 財団の笹川良一名誉会長は、このとき89歳。記念すべきこの首脳会議の開会を宣言し、会議の終わりには30億円で太平洋島嶼基金を設立すると発表した。この基金は、いまでも日本と島嶼諸国を繋ぐ様々なプログラムを実施する民間基金として活躍している。
 笹川良一といえば、功罪評価が相半ばする戦後日本の大物右翼として知られた人物である。彼について、私はそれ以上を語る知識を持ち合わせてはいない。だが、島サミットの関連史を探るとき、日本での島嶼首脳会議を最初に考えた笹川氏とそれを実行に移した平和財団の功績を見逃すことはできないだろう。太平洋島嶼国会議の先鞭がなかったら、私自身も日本開催の首脳会議を思いつかなかっただろうし、なにしろ前例を重んじる日本の役所だけに、これまでに例のない大がかりな外交イベントの開催を決断したかどうかも分からない。

 毛沢東の革命故事に「最初に井戸を掘った人を忘れない」とある。よって私は、太平洋・島サミット開催の歴史について語るとき、そのモデルとなった民間財団が主催した「太平洋島嶼国会議」から始めることにしているのである。

初めての島サミット
 ともあれ、こうして第1回の「太平洋・島サミット」が1997年10月に東京で開催された。果たしてその結果は? 私の評価では「一応の成功は収めた」と言っておこう。「大成功」ではなく、なおかつ「一応」を付けたのは、かなりの問題点を残したからである。
 成功部分についての説明はさておき、まずは問題点を紹介したい。その最たるものは、首脳会議の招聘者である橋本龍太郎首相が、会議の議長を務めなかったことにある。議長を務めたのは外務大臣の小渕恵三でもなく、高村正彦外務政務次官だった。行財政改革国会の紛糾で国会内に足止めされた橋本首相が首脳たちの前に姿を現したのは、集合写真を撮るときだけ。島嶼国側は、いずれも大統領か首相を送り込んできているのに、これでは如何なる言い訳を駆使しようと、明らかに外交上の非礼行為にあたる。島嶼首脳たちはみな会議開催国への謝辞を述べたが、内心では大いなる不快感を抱いて帰国したはずだった。そう思うのは、日本の非礼を指摘し、なぜこうなったのかを尋ねる何通ものメールが私のパソコンに届いていたからである。
 ではなぜ、首相が出席しなかったのか? 自らの名で招待しておきながら、国会審議の紛糾というのは理由にならない。おそらくその真相は、初めての島サミットが日本政府の事業というより、外務省の実施事業だといった程度の認識のされかただったからだと私は想像する。行政府を構成する一省である外務省はイコール政府であるはずだが、縦割り行政の日本では単純にイコールにならないことがある。外務省のイニシアティブで首脳会議の開催にまでこぎ着けたが、この会議の意義や重要性が充分に総理官邸まで伝わらずに、結果として島嶼諸国を軽視する形になった。自ら島嶼国と接して島々の存在を知った中曽根首相と外務省の振り付けで外交行事をこなそうとした橋本首相の違いだといえばそれまでだが、要するに日本政府の対島嶼認識がこのレベルだった現実が露呈したのである。

 島サミットの開催に充分な意義を認めて懸命に仕事をしていたのは、外務省の、しかも担当部局だけ。少なくとも私の眼には、外務省ですら省全体のコンセンサスになっていたとは映らなかったし、ましてや他省庁にいたっては島サミットの意義はもちろん、開催の事実すら十分に知れわたってはおらず、到底日本あげての国家行事とは思えなかった。10名を超える外国の首脳を招待しておきながら首相が国会を優先したところに、島国を軽視していた当時の政府認識が見て取れる。新聞報道も、こうした雰囲気を反映していた。首脳会議の開催事実を知らせる数行の記事を載せた新聞もあったが、大方は無視。わずかに、「首相の一日欄」で島嶼首脳らと集合写真を撮った事実を確認できる程度だった。

島サミット開催の意義
 それでも私は、初めて日本で開催した島サミットを「成功」だと既述した。不満を感じたまま帰国した首脳が多かったのは事実だったが、一方で、旧宗主国だった米国でも豪州でもイギリスでもない日本が、自国に首脳たちを招いて実施した会議への評価は十分に高かったからである。
 島嶼諸国首脳との会議に橋本首相が顔を出さなかったのは、儀礼的には非礼だったと言わざるを得ない。だが、島嶼側は実際の交流に携わる多くの日本側実務者たちの存在を十分に実感できたことで、日本への信頼や期待が一気に大きくなった。これからも2、3年に一度はこの会議を続けようとの合意ができたのは、その証しに他ならない。日本が目指した島サミット開催の意義とは正にこれ、信頼と協調を生み出す場を作り上げることにあった。であれば、島サミットはまずまずの成功を収めたと言っていいではないか。
 ここであらためて、島サミットの開催意義と重要性を整理してみたい。
まず第一に、この首脳会議は、日本・島嶼国双方にとって大きな効用をもたらす。島嶼諸国は、独立後も旧宗主国との政治的・経済的な結びつきが依然として強く、こうした国家体質から抜け出すためには別の先進国からの協力が不可欠だった。それがODAの最大拠出国で、米国や豪州との関係が良好である日本であれば、願ってもない相手となる。一方日本の側は、海続きの島嶼国家群と恒常的な交流の場を設けることで、これまでの首脳外交の欠落を一気に解消できる。また、経済協力やODAを通じての包括的対島嶼政策を構築するための、もっとも効率的かつ確度の高い情報源ともなるからだ。国家リーダーたちが直接顔を付き合わせることで醸成される人間関係の絆は、一片の経済協力よりも固く結ばれる可能性すら秘めている。だから、こうした場の設定を日本政府の主体性で実施したこと自体が重大な意味を有するし、大いなる評価に値するのである。
 日本にとって、島嶼諸国はなぜ重要なのか? 島サミットを日本で開催する理由は、何処にあるのか? これらの問いに対しては、①太平洋の漁業資源を確保したい、②貿易立国である日本はシーレーンを確保する必要がある、③小国も大国も一国に変わりないので国連での票集めを目指している、④元日本領のミクロネシアには、沢山の日系人が暮らしている、⑤中国の海洋進出を牽制する必要がある・・・・・と、こんな答えや説明を聞いたことがあるかもしれないが、私ならばこれらを並べ上げただけでは合格点を付けない。確かに、国際関係は日々変化しているから、その都度の政治的関心や協議テーマがあって当然だ。ゆえに、その一つひとつを間違いだとは言わないが、島サミットの普遍的な開催動機にはならないのではないか。だからこそ、時々に生じた如何なる関心事に対しても、対処でき得る「協議の場」と「信頼関係の確立」こそが大事になる。島サミット開催の本来的意義とは、ここにこそあると私は考えている。
 そして第二には、日本国内で開催することの重要性である。そもそも島サミットというのは、日本が島嶼国を招待して行う会議なのだから、常に日本は主体性を発揮しなければならないし、会議の動向には日本自身の責任が生じてくる。その会議形態は、地域国際組織であるフォーラム内における島嶼国と先進国である豪州、ニュージーランドとの関係と、島サミットにおける島嶼国と日本の関係とは、自ずと違う。だからこそ、会議を成功させていけば、それが島嶼国の信頼を勝ち得る結果に繋がっていくのである。回を重ねるにつれ、「たまには目先を変えて、島嶼国の何処かで開催しては如何か」との意見を聞くことがあるが、それでは本来の趣旨から外れてしまう。時代の流れの中で、必要があればスタート時の趣旨や目的を変更させるのはいい。しかし、マンネリ化して、当初の趣旨や目的を忘れてしまうような不注意があってはならないのである。
さらに第三には、島嶼諸国の存在やその外交的重要性を日本人自身に知らしめる機会とする効用がある。直接会議に関わる関係者だけの行事で終わっては、その効果は最小限に留まるだろう。真の外交的発展は、国民の広い支持に支えられたときに初めて花開くものだ。その点からも、島サミットが国内のどこかで開催されることの意味は、ことのほか大きいのである。
 これだけの外交的意義を有する首脳会議を、日本政府が自らのリーダーシップで開催したという事例を私は他に知らない。とかく米国追随だとか主体性がないと批判されがちな日本外交にあって、日本独自のイニシアティブで進めるこの行事は、太平洋での日本のプレゼンスを高めるに極めて効果的な外交行為となっているのである。

 類似の会議としてよく比較されるのが、1993年に始まって5年ごと開催されているアフリカ開発会議(TICAD: Tokyo International Conference on African Development)だ。しかし、これは日本の主導だとはいえ、国連、国連開発計画(UNDP)、世銀との共催事業であって、似て非なるものだと理解すべきものだろう。

首脳会議は地方開催がいい
 第1回島サミットから1年ほど経ったある日、大洋州課長が太平洋に関係する4人の民間人を夕食に招いた。その顔ぶれは、船会社の社長、貿易会社の営業役員、そして太平洋研究者が2人。その内の一人は私だったが、島サミットを企画立案した当時の課長は代替わりしていた。この食事会は、第1回目の問題点の指摘、そして2回目を実施するとすれば、どのような会合にすべきかの意見聴取が目的だった。
 そこで、「次回は、東京ではなく地方都市開催にすればいい。これを実現させれば、1回目に生じた問題点はほとんど解決されるはずです」と私は意見を述べた。ここで挙げた地方開催の利点とは次のようなものだ。
 第一は、来訪首脳たちに対し、官民が一緒になって地元民ぐるみの歓迎ができる。第二は、地元の新聞、テレビなどマスメディアの報道が大きくなる。この二つが思惑どおりに運べば、日本中が一丸となって島嶼首脳たちを歓迎しているという「美しき誤解」が生じるはずだ。首脳会議も政治イベントの一つなのだから、こうした演出が重要なのである。第三は、人的交流や情報の提供により地方の島嶼関心を高める。国民レベルの理解を広げるには、まず地方からの声を高めるのが効果的だ。第四は、世界一律的な大都市では感じにくい多様な日本の姿を、島嶼首脳たちに見せることができる。第五は、総理が島嶼首脳らと地方に出れば、会議の途中で国内の政治事情によって安易に東京に呼び戻されることなく、一日の行動を共にできる・・・・・と良いことずくめである。
 この提案について、課長は呆れたように苦笑いして「そうなれば理想的です。しかし、地方開催は安全確保、警備の観点からは非現実的、莫大な経費もかかります。総理を一日以上も完全拘束するのは、さらに難しい。地方では、事務局のサポート体制もままならない。台風などの天候不順で国内移動が制限された場合に備え、東京近辺に代替地を準備する必要もある。これではリスクが大きすぎます」と言ったのである。
 確かに、面倒が山積する地方開催を想定するより、東京開催の方が無難な選択に違いない。こうした課長の反応は、彼個人の考え方というより、当時の外務省あるいは日本政府全体の考え方を反映していたように思う。実際に、1975年に6ヵ国で始まった主要先進国サミットの日本開催は3回を数えていたが、開催地はいずれも東京だった。それに対して他の国々は、イギリスを除けば各国とも毎回異なる場所で実施していたのである。そのイギリスは3回続けてロンドンだったが、さすがに4回目はバーミンガムでの開催となった。しかし日本政府は、4回目も東京以外はあり得ないと考えていたはずである。だって、外国首脳の安全確保は難しいし、莫大な費用もかかるのだから・・・・・。
 世界でもっとも安全な国、警察組織も整っていると日頃から誇っている日本が、治安警備の不安からサミットの地方開催を断念してきたという現実。これって、どこか変ではありませんか? 日本より遙かに安全性に不安があるイタリアやフランスができることを、この国が試みないのだから。そうは思うけれど、敢えて外務官僚の保守性を弁護するならば、この種の問題は役人レベルではなく、政治レベルで判断し、決断するものだと言えるかもしれない。であれば、次の島サミットに関して、私のアイディアが課長の関心を引きつけられなかったのは仕方なかったのだろう。
 ところがである。その2年後に2回目の島サミットが実施された場所は宮崎県だった。地方開催のメリットが十二分に発揮されて大成功したのである。今日に続くこの首脳会議の原型は、この宮崎会議でできあがったと言っていい。では、官僚が不可能だと思った島サミットの地方開催と、それに付随する様々な困難が払拭されたのはなぜか? それは、この種の政治イベントには本来的にはなくてはならない政治的判断が、ようやく日本でも下されたからだった。
 政治決断をしたのは、第三次橋本龍太郎内閣で外務大臣を務めた小渕恵三首相である。主要先進国サミットの開催権が日本に回ってきたのは、小渕が首相になって2年目。新聞によれば、学生時代からの特別な思い入れがあって、自分が主催する主要国首脳会議は、是非とも沖縄で開催したいと考えたのだという。この時のサミットは、九州・沖縄サミットと呼ばれ、その関連イベントが福岡や宮崎でも実施された。
 如何なる経緯でサミットの沖縄開催が決められたのか、私は新聞情報以上のことは知らない。しかし、極めて強力な首相の意思が働いていたことは、容易に想像できる。これだけの大政治イベントを前例のない地方で開催するには、官僚レベルでは到底出せない力が作用していたはずだからである。
 そして2000年7月に予定される主要国首脳会議の開催地が沖縄に決まると、それより3ヵ月前の4月に計画されていた2回目の島サミット開催地も、すんなりと宮崎に決まった。予想された幾つかの地方リスクも、沖縄開催を実現させるという意欲の前には、解決不能な障壁にはならなかったようだ。
 宮崎島サミットは、沖縄開催となった主要国サミットのついでに決まったわけではなかった。おそらく、小渕首相の明確な意思が働いていたはずだ。私がそう思ったのは、首相官邸を訪問したパラオ共和国のクニオ・ナカムラ大統領への発言だった。首相は、「島サミットに向けて、事情を聞きに島嶼諸国を回ってみたいものです」(読売新聞99/12/22)と語り、来るべきサミットでは自ら議長を務める意欲を示したのである。島嶼国を巡りたいという発言は、多分に外交辞令的な匂いがする。しかし、ナカムラ大統領は、「次の島サミットは、是非とも大成功に導きたいとする首相の気持ちが充分に伝わってきました」と後日、私に話している。初回の島サミット時に外務大臣だった小渕の耳にも、首相も外務大臣も会議に参加しなかったことへの島嶼諸国の不満や悪評が届いていた。それゆえに、自らの手で悪印象を払拭したいと考えていたのであろう。

 こうして、相次いで実施された第2回太平洋・島サミットと第26回主要国サミットは、どちらも地方開催の利点を十二分に発揮して成功を収めたのである。案ずるより産むが易し、「やればできるじゃないか」と思った。それ以後、首脳会議の地方開催など不可能だといった声を、私は一度も聞いたことがない。今では当たり前になった地方での首脳会議だが、その先鞭を付けた功績は小渕首相にある。

森総理が大活躍
 ところが、2回目の島サミットの議長を務めたのは小渕首相ではなく、森喜朗首相だった。島サミット開催直前に、小渕が急死したからである。急遽登板した森新首相は、就任したその月のうちに首脳会議を仕切らねばならなくなった。
それでも首相は、「21世紀に向けて『若者』『海』『未来』をキーワードに『太平洋フロンティア外交』を推進する」と宣言し、島嶼国への外交姿勢を鮮明に打ち出したのである。これで前回の非礼を払拭し、島嶼首脳らの信頼を一気に勝ちとったように思える。日本の首相が直接島々のリーダーたちに呼びかける初めての機会に、会場は前回とは打って変わった盛り上がりを見せていたからである。
 宮崎島サミットが大成功を収めた理由は幾つかあるが、その一つは、小渕首相自らが入れ込んで進めた地方での会議実施だったろう。島嶼首脳たちが空港に降り立つや歓迎の報道フラッシュが光り続け、街を走ると沿道の子供たちが一斉に手を振った。翌朝の地元新聞は一面から五面まで、ほとんど島サミット関連の記事で埋め尽くされ、テレビもまた最重要ニュースとして扱った。こうした歓迎ぶりに島嶼国の首脳たちは、日本中が島サミットに注目していると錯覚したことだろう。これぞまさしく、地方開催メリットなのである。
 小渕首相に代わって、議長を務めた森首相が果たした役割も大きかった。森首相は、日頃から太平洋島嶼の問題に取り組んでいた唯一とも言える大物政治家だったし、小渕首相の首脳会議にかける思いを十二分に理解してもいた。また、明るいキャラクターも大いに幸いしたはずである。自らラガーと称し、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」と言ってラグビーボールを蹴って見せた。トンガやサモアなどのポリネシア諸国では、ラグビーが最も人気あるスポーツだと知っていたからだ。こうした首相のパフォーマンスに、首脳たちは一様に親しみを感じ、いっそうの友好ムードが拡がっていった。
 その年のフォーラム議長だったパラオ共和国のナカムラ大統領もまた、森首相とともに記録に残すべき人物だった。ナカムラは、第1回会合にはなかった共同議長という大役に大いなる情熱を傾けて、会議を成功に導びいた功労者だったからだ。ナカムラの情熱の元は、偶然にめぐってきた首脳会議の議長という晴れ舞台が、父の国日本だったからに他ならない。就任間もない新首相と日本語を解する日系人大統領が共同で進めた会議の進行は、気合いも呼吸もぴったりと噛み合って、会場は終始友好ムードに包まれていた。

 こうして関係者の尽力と都合の良い幾つかの巡り合わせも重なって、2回目の島サミットは大成功のうちに終わった。招待者側と島嶼国側代表による共同議長方式、会議後の共同宣言発表、3年ごとの首脳会議、地方での開催等々、今日に繋がる島サミットの原型は、こうしてできあがったのである。

変化する島サミット
 太平洋・島サミットは、その後も順調に回を重ね、2012年5月に6度目を終えた。各会議の内容概略は、文末一覧表に掲げた通りである。15年の歳月とこれだけの回数を経れば、自ずと当初の形やそれを取り巻く周辺環境には変化が生じてくる。それでも島サミットが本来的意味を失わないままに今日まで続いて来たのは、周辺変化に対応し、時代の要請を反映させるべく進化を遂げてきたからだろう。
 ではこの首脳会議は、これまでどう変化してきたのかを見よう。最初の島サミットは、とにかく島嶼首脳を纏めて日本に招くこと自体に最大の意義があった。だから、首相の不在で不評を買ったとはいえ、政治イベントそのものは島嶼国側からの高い評価を得たのである。
 この会議で日本と島嶼諸国は、①島嶼地域の開発と経済援助、②共通課題としての漁業資源管理、③環境問題・廃棄物処理、等のテーマで話し合い、さらに、3年に一度程度の間隔で首脳会議を開催したいと提案して受入れられた。この首脳会議の正式日本語名称は、「日本・南太平洋フォーラム首脳会議」とした。フォーラムを通じて、その加盟国すべてを日本に招く会合だったからだ。
 そもそも日本の本格的な島嶼国への外交アプローチは、1987年の倉成ドクトリンの発表に始まり、89年の第1回フォーラム域外国対話への参加、96年のフォーラムとの協働による太平洋諸島センター(フォーラム諸国の貿易・投資促進を支援するための国際機関)の東京開設等々、いずれもフォーラム事務局を通じて行ってきた。まず、地域を束ねるフォーラムを大切にし、そこから各国ごとの関係に入り込むというのが日本外交の基本姿勢だったのである。10を超える小国家への個別対応には時間も労力もかかるが、地域を束ねるフォーラムはそれを省ける便利な組織だと考えたからだろう。こうしたフォーラム観がその後、不都合を生じさせることになるのだが、おそらくその時点で将来を予測した者は、日本の外交当局の中にはいなかったように思える。何が不都合だったのかについては、後段で触れよう。
 ともあれ、初回の実績を踏まえた宮崎会議での森議長は、太平洋フロンティア外交を提唱し、島嶼国支援の重点項目として(1)持続可能な開発、(2)地域及び地球規模の共通課題への取り組み、(3)日本とフォーラム諸国との間のパートナーシップの強化、の三つを打ち出した。これが「宮崎イニシアティブ」だが、これに沿って協力内容を具体的に示したのである(文末一覧表を参照)。また、「太平洋・島サミット」という俗称が使用されるのも、この会議からである。英語ではPALM(Pacific Islands Leaders Meeting)と略称し、英語のpalm(椰子)に引っかけた覚えやすく親しみやすいネーミングとした。
 名称の話ついでに、もう一つ触れておくと、この年の10月、パラオで開催されたフォーラムの年次総会からこの協議体の名称が「南太平洋フォーラム(South Pacific Forum: SPF)」から「太平洋諸島フォーラム(Pacific Islands Forum:PIF)」へと変わった。前年のキリバス総会で名称変更決議がなされ、一年間の周知期間を経てパラオ総会で発効した。北半球に位置するミクロネシア3国の組織加盟によって、「南」を冠する名称をできるだけ外そうとの意見が広がったことが改称の理由だった。

 こうして島サミットの形は第2回会合でほぼ完成し、その後の会議の形式基盤となった。旧宗主国でもない一国家が、地域国家群を束ねて継続的に会議を重ねているケースは、おそらく他にはないだろう。少なくとも私は、他の事例を知らない。それゆえ、この会議は太平洋島嶼を取り巻く諸大国の注目を大いに集めることとなったのである。とりわけ強い関心を示したのが中国で、それがやがて島サミットに大きな影響を与えることになる。

他国が真似る島サミット
 2006年、中国は第4回太平洋・島サミット直前の4月に島嶼国首脳をフィジーに集めて、中国版「島サミット」を実施した。集まったのは外交関係を結ぶ6ヵ国2地域の首脳たちだったが、中国からは温家宝首相が乗り込んで、3年間で400億円程度の援助供与を約束したのである。高額の援助提示は「あからさまな島サミット潰し」であると、日本側で準備を進める関係者の誰もが感じたことだろう。日本が援助方針と援助重点分野を表明するだけの従来方式を次の島サミットでも続ければ、中国と比較する島嶼国首脳たちの失望する顔が目に見えていたからだ。
 そこで小泉首相は、「諸協力を実現するために3年間で450億円の無償援助を実施する」と表明することとなった。これは、まぎれもなく中国への対抗措置だった。だが、この時を契機に、第5回目には3年間で500億円、第6回目には5億ドルと援助額提示が慣例化してしまった。
 近年、日本のODA拠出額が減り続ける中で、今後も援助額提示を続けていけるのか、続けていくべきなのかは検討の余地がある。しかしその際には、島サミットはもはや、日本と島嶼諸国の関係性だけを考慮すれば良かった時代を通り越している現実を忘れてはならないだろう。というのも、その年の6月にはフランスがパリで、9月にはパラオで台湾が類似の島サミットを実施するなど、日本を真似る国々が中国の他にも出現しはじめたからだ。島嶼諸国が引っ張り凧となる傾向はさらに、韓国やロシアまで広がりをみせている。今のところは不定期であったり外相レベルの会合だったりと、本家の面目はなんとか保たれてはいる。

 だが、こうした状況変化は、もはや開催することに意義があった時代から、日本が何を志向しどのようなゴールを目指すのかを問われる段階に入ったことを意味している。それだけに、日本が自らの立ち位置を鮮明に打ち出していかなければ、島嶼諸国に対する求心力を維持していくのは難しくなるだろう。

主体性を問われるフィジー問題
 もう一つ、日本の主体性を問われる問題が起こったのは、第5回の北海道トマム・サミットだった。それは、域内大国フィジー共和国の首相を招待しなかったことにある。
 フィジーでは、2006年に4回目のクーデタが起こり、憲法停止、議会閉鎖の中で軍司令長官バイニマラマが首相の座に着いた。そして日本は、この非民主政権の首相を招かないという外交判断を下したのである。島サミットには、首相に代わって駐日フィジー大使が参加した。そして3年後の第6回沖縄サミットでもまた日本は、フィジー首相を招待せずに外務大臣に招待状を送ったのである。その理由の一つは、国内諸事情を整えて2014年に普通選挙を実施して民主国家体制へ移行するとバイニマラマ政権は宣言しているが、日本の要請にもかかわらずそれまでの民主化プロセスが明示されていないからだという。
 これに対してフィジーは、「島サミットは首脳会議なのだから、外務大臣が招かれても出席できません。とはいえ、日本は大切な外交パートナーなので、年内に野田首相に是非ともフィジー訪問して下さるように、ご招待いたします」と返事し、島サミットには駐日フィジー大使さえ参加させなかった。
 フィジーのクーデタとバイニマラマ政権についての詳細は、本稿では触れないが、このクーデタの性格と政権体制がどうであれ、日本とフィジーとのやりとりでは、明らかにフィジーの返答に筋が通っている。軍事政権の首相だから招待しないという判断が一つの選択肢ならば、その内閣の一員である外相も同様に招待できないはずではないか。クンブァンブァラ外相から私に届いたメールには、「今回もまた、豪州の圧力に屈したのですね。大国日本が、どうして豪州ごときの影響を受けるのか、私には理解不能です」とあった。
 この豪州の影響力こそが、前項で指摘した「フォーラムを通して島嶼国にアプローチすることの不都合」なのである。日本は、もっぱら島嶼諸国との外交関係の深化をフォーラムへの接近によって果たそうとしてきたが、実際には旧宗主国である豪州とNZも加盟国だ。それは、フォーラムが島嶼国だけの意向を反映する組織ではないことを意味する。フィジーはクーデタの後、「非合法手続きで存在する政府を容認するわけにはいかない」という理由で、フォーラム・メンバーとしての資格停止処分を受けた。もちろん豪・NZの強い意向が働いた結果である。そして豪・NZ政府は、それらを理由に日本・PIF首脳会議(島サミット)にフィジー首相を招待すべきではないと、再三にわたる申し入れをしてきたのだ。
 日本政府は、「豪州から外交圧力を受けたことはない。自らバイニマラマを招待すべきではないと判断した」と言っている。圧力ではないのかもれない。しかし、日本政府が豪、NZの強い反対姿勢に配慮したことは間違いないだろう。その意味で私は、クンブァンブァラ外相と同じ見方である。
 島サミットにフィジーの首相を招くか否か、個別に島嶼国首脳に尋ねれば、サモア、ニウエなど豪・NZの影響力がとりわけ強い二、三を除き、「日本の主催会議ゆえに、主催国がフィジーを招くのは何ら問題はない」と答えるはずだ。バイニマラマ政権下のフィジーには、国民抑圧や人権侵害が起こっているわけではなく、近隣国との関係も従来と何ら変らない。だから内政問題であって、周辺国がとやかく言う問題ではないと思っているからである。実際に、メラネシア諸国が中心のスピアヘットグループの定期会合や国連関連機関の地域会合でも、フィジーは排除されることなく会議参加している。ならば、「島サミットにフィジーを呼んでも構わない。招いた方が良い」と事前会合の場で日本政府に言って欲しいと私は頼んでみたが、豪、NZを面前にした彼らは決してストレートに本音を口にしないのである。ここに旧宗主国である豪、NZと島嶼諸国の間にある微妙で複雑な感情を察することができる。

 米国との自由連合国であるミクロネシア3国を除けば、いずれの国も、憲法から行政システム、教育体制まで、そして極小国では通貨さえ豪州やNZ貨幣を使用する。それほど結びつきが強く、独立以来の財政支援や経済協力などの恩恵も多大に受けてきた。それでも島の人々は、おおむね豪・NZを好ましく思っていない。とりわけ豪州に対しては、押しつけがましいし、いつまでも主人面しているとの反感が強いのである。だから、そんな豪州の主張に同調してフィジーを招かないことにすれば、やっぱり日本も豪州と同じ側の大国志向の国であると島嶼国の失望を招いてしまう。これでは、何のために島サミットを開催するのか分からなくなるではないか。

NZ課長との議論
 私が「フィジーの首相も島サミットに招くべきだ」といった発言をし続けているのを聞きつけたNZ外務貿易省のアンドリア・スミス太平洋課長が、来日の折りに訪ねてきた。私たち二人の議論を交互に並べると、概ね次のようになる。
「貴男はフィジー擁護の最強硬派だと聞きますが、クーデタを容認するのでしょうか? 私たちは、武力による政権維持を認めません。日本がフィジーの首相を島サミットに招待すれば、我が国はもちろん、島嶼諸国も招待に応じない国がたくさん出てくる可能性があります。それでも、フイジー首相を招いた方が良いとお考えでしょうか?」。
 「クーデタ政権を良しとは思いません。しかし、現政権は真の民主化政府を作るために準備中だと言っている。現に、国民に対する抑圧や人権侵害も行っていません。さらにクーデタ前の政権に比べて、汚職やネポティズムの少ないクリーン政権です。ならば、排除したり制裁を加えるより、島サミットに招いて皆で民主化を促し、そのプロセスへの協力を約束した方が、結果的にフィジーの民主化を早めるのに効果的だと思います。
 日本政府がフィジー首相を招待した場合、貴女のお国や豪州は憤慨して参加しないのかもしれませんが、貴女方が圧力をかけない限り、島嶼諸国から不参加国は出ないでしょう。現に、今でも様々な国際会議がフィジーの参加の下で行われているのですから。」
 「今、軍事政権下にあるフィジーは、フォーラム加盟国の決議によって資格停止の状態にあるのです。もちろんご存じのとおり、島サミットの正式名称は『日本・PIF首脳会議』ですから、資格停止の国を招くのは、加盟国の総意に反する行為になります」。
 「理屈上は貴女が正しいかもしれません。ですが、日本が島サミットを開催する本来の目的は、豪・NZを含んだフォーラム諸国とではなく、島嶼諸国との対話です。この本質に沿って判断するならば、フォーラム加盟国ではない日本がフィジーを呼ぶことに、規則違反も論理矛盾もありません」。
 二人の会話は、どちらも譲らず概ね既述内容の繰り返しが40分ほど続いて、時間切れとなった。「貴男のような分からず屋が、日本政府の中に居なくて良かった」と彼女は最後に笑って言った。私も「貴女のような原則主義者と、ホットな議論ができて楽しかった」と応じておいた。
 ここでのやりとりで注目すべきは、「日本・PIF首脳会議なのだから」というスミス氏の発言だ。日本は、島嶼諸国を相手にしていたつもりが、島サミットの対象国をフォーラム加盟国としたために、いつの間にか豪・NZに口を挟む余地を与えてしまったのだ。このように、今やフォーラムの実態は、必ずしも島嶼諸国の意向だけを束ねる組織ではなくなっている現実を認識しておく必要がある。

 ところでそのフィジーだが、現政府の宣言どおり、民主化への地ならし期間5年を経て、いよいよ9月17日に新憲法に基づく民主的選挙が実施される。本誌が出版された直後には、新政権が誕生しているはずだ。しかし、その結果をここで予測するのは極めて難しい。国民人気が抜群に高いバイニマラマ現首相の議員当選は確実だとしても、彼を支持する議員が多数派を占めなければバイニマラマは首相にはなれないからだ。その場合の政権安定度がどうなるのか、それも読めないところだが、いずれにせよ日本は、新体制との関係構築を早急に実現させられるよう、その動向をしっかりと見守っていかねばならない。

変化するフォーラムの体質
 地域結束の象徴でもある南太平洋フォーラム(SPF)とは、フィジーの初代首相カミセセ・マラが、従来あった宗主諸国らによる南太平洋委員会(SPC)と一線を画して、政治問題も自由に協議できる島嶼独立国のための組織として立ち上げたものだ。そこに豪州・NZが加盟したのは、域内国家として巻き込んでおけば組織の運営分担金をたくさん拠出してもらえる、片や豪・NZにしてみれば新独立諸国の動向を掌握しておくことができる、という両者の思惑が一致したからだった。
 それでも独立を促した豪・NZは、国家建設への援助協力を続けるものの、ローカライゼイションを進めながら徐々に島嶼関与から撤退していきたいと考えていた。フォーラムの運営も、努めて島嶼諸国の自主性を見守る姿勢を堅持し、フォーラム事務総長ポストも島嶼国の首相、大統領経験者が就くとの慣例ができつつあった。それゆえこの段階までは、フォーラムを通じた対島嶼国アプローチでの不都合を、日本はさほど感じることがなかったのである。
 ところが2003年以降、豪州は今までの方針を転換して島嶼関与を強めていく。その切っ掛けとなったのは、この年にオーストラリア国立大学のヘレン・ヒューズ名誉教授が発表した論文「島嶼諸国への援助は失敗だった」(Aid has failed the Pacific /Helen Hughes/May 7, 2003/ Issue Analysis, The Center for Independent Studes)である。その後、ヒューズ教授の認識は政府内でも共有され、様々な従来政策の見直しが行われていく。
 2004年、それまで島嶼国出身者のポストだと思われていたフォーラム事務総長席に豪州人グレッグ・アウインが座ったのは、豪州の強い意思が働いたからだ。アウインは体調不良で引退するまで丸4年間その席に留まり、その後はツバル人のフェレティ・テオ、現職のサモア人のツイロマ・スレイドと続くが、この二人も豪州の意向を受けた人物だった。豪州が、時にはフォーラムを通じて、またある時には直接的に島サミットに関して口を挟んでくるのは、こうした流れの中で起こっている行為なのである。
 ところで、豪、NZの対島嶼国政策は必ずしも一致しているわけではないし、島嶼国側が抱く両国への感情もまた同じだと言うわけでもない。だが、やはり旧宗主国の一つとしてNZの存在は、島嶼国よりもずっと豪州に近い立ち位置だと見ていい。
 では、日本の島サミットを真似て首脳会議をやり始めた他の大国は、やはり豪・NZの意向を反映するフォーラムに何らか縛られているのだろうか。実のところ、首脳会議の開催にあたっては、ほとんどフォーラムの関与を受けていないと言っていい。

 例えば中国・台湾の場合は、フォーラム加盟諸国との外交関係を分け合うという事情があるものの、すべての国と外交関係を持つフランスや韓国でも、豪・NZの意向とは無関係に首脳会議を実施しているのである。それは、フォーラム事務局を連絡や調整等の役割では利用はするけれど、会議には島嶼国を個別に招待したからだ。これでは、会議に招待されてもいない豪・NZが口を挟む余地はない。こうした方策をとったのも、日本の後を追った後発サミット開催国ゆえの知恵だったかもしれない。

日本の対応変化
 日本政府も島サミットの回を重ねる中で、フォーラムを前面に捉えた対島嶼アプローチに問題があることを、ようやく実感してきたようである。私がそう思ったのは、その不都合を払拭するために幾つかの改善策が6回目の島サミットには盛り込まれていたからだ。
 その一つは、日本語記述の時には、正式名称である「日本・PIF首脳会議」を使用せずに、俗称の「太平洋・島サミット」に統一したことである。敢えて名称変更を宣言してはいないが、政府の書類からは前者の名称が完全に消えた。
二つ目は、クック諸島を共同議長国にしたこと。慣例的順番ではNZが議長国になるはずだったが、それを回避するために政府は外交関係のなかった自治領クック諸島を国家承認し、そのタイミングでNZに代わってクック諸島を共同議長国にすることを他の国々に了承させたのである。もちろん島嶼諸国は大歓迎だった。3年ごとに島サミットを続けると、将来的に豪州にも共同議長の順番がまわる可能性があったが、これで島嶼国がいつも議長の座に着くべく前例となった。
 三つ目が、米国の参加を要請したこと。これは、日本と島嶼諸国の協議機会のはずなのに、豪・NZにあれこれ口を挟さまれてはかなわないので、新たに米国を呼び込んでドナー国グループとして囲い込み、島サミットへの直接的な影響力を弱めようとの意図だった。これは豪・NZを煙たがる島嶼諸国の意向にも合致する。
 ところが、この三つ目については、島嶼諸国の誤解を招いて思わぬ反発が出てしまった。新聞報道では、「中国への牽制力を強化するため」といった解説が目立ったが、島嶼諸国の側も、日本が新たな大国パワーを加えようとしていると誤解したのだ。これなど、豪・NZのいないところで、日本政府の意図を島嶼諸国にきちんと説明してさえおけば済んだものを、つまらぬ外交的ミスだったのではないかと私は思う。

 いずれにせよ、こうした幾つかの変更を重ねながら15年間にわたり6回も続けてきたという実績は、なによりも賞賛に値する。私的には、これを実現させてきた関係当局の頑張りに敬意を表するばかりであり、さらなる会議の充実を図りながら島嶼国との緊密関係を継続させて行って欲しいものだ。

求められる将来ビジョン
 しかしながら、これまでの実績を誇って、ただ回を積み重ねていくだけでは、早晩会議開催の意義は薄らぎ、日本への求心力は消滅する。そうならないためには、次回以降の首脳会議を控えて、少なくとも次の二つの点について、日本の意思を明確に示していく必要があるように思う。
 その一つは、日本が目指す「太平洋・島サミット」は、島嶼諸国の会議であって、豪州、NZを含むフォーラム加盟国との会議ではないこと。
 これは日本外交において豪州、NZを排除することを意味しない。この度の安倍・アボット会談で両国の協働、協力体制の強化を歌い上げたように、太平洋地域における豪州、NZは、日本にとって大切な外交パートナーであることは自明である。だが、それと対島嶼国外交とは別の問題だ。主権国家群である島嶼諸国の充分な信頼を勝ち取るには、豪州関係と切り離して対応することがなによりも必要な配慮なのである。
 二つ目は、島サミットの回を重ねる先にどのような未来が拡がっているのか、日本としての国家ビジョンを示すことである。

日本が何をしたいのか、島嶼諸国とともに如何なる地域を形成しようとするのか。これについて具体的提示があればこそ、実のある議論テーマが生まれる。例えば、第5回会議で打ち出した「太平洋環境共同体」のような構想もその一つのテーマになりえたのだが、一回限りの環境基金拠出を行ったものの、その先の議論へと進まずに言葉だけの提起に終わってしまった。

 東南アジア諸国連合(ASEAN)もアジア太平洋経済協力会議(APEC)も、そして欧州連合(EU)もまたそうだったように、ほとんどの地域機関や組織は単なる協議体からはじまった。その例にならえば、島サミットも将来的には組織を固定化させるとか専門事務局を設立するとか、なにか展望を含めた具体的な目標を掲げることが必要ではないか。みなで作り上げる共通のゴールを描くことなく会議ばかりを重ねれば、島サミットは遠からぬうちに援助の分配会議のような場になりかねない。現に、第5回、6回の会議に当たっては、「今度はいかほどの援助額を提示してくれるのだろうか」というのが島嶼諸国の最大関心事だった。
 国家や地域の将来ビジョンを打ち出すのは行政当局というより、むしろトップレベルの政治家の役割が大きいように思う。太平洋政策に限らず、他の地域であれ、国内問題であれ、国家の大方針を決めるビジョンを示さないこれまでの日本の政治事情を鑑みれば、多くを期待できないのかもしれない。それでも、日本の首脳会議を真似る周辺国が幾つも出現してきたように、島サミットの動向は当事諸国だけではなく近隣諸国にも注目されているのである。このことは、日本の当局が感じている以上に、近隣諸国の評価が高いと言っていい。日本は、それだけの自信を持って良いし、同時に重い責任をも感じて今後の島サミットに取り組んで行かなければならないと思う。

 では、何をすべきなのか。まず取り組まねばならないのは、海洋国家としての海洋政策を作り上げることだ。海に囲まれているだけでは、海洋国家ではない。海洋を利用し、管理し、隣接諸国と協調するための総合的な海洋政策を有してこそ、海洋国家だと言えるのである。それゆえ、首脳会議がいくら重要イベントでも、それだけが独立した存在であれば島サミットの意味も薄い。これが太平洋外交を発展させるためのツールであるのなら、全体の海洋政策の中にそれを位置づけなければならないと思うからである。幸いにして安倍政権は、日本の離島管理や領土、領海、海洋資源などへの理解を深める「海洋教育」さえも充実させる(読売新聞8月13日)というから、この方向性には大いに期待できるだろう。これこそが海洋国家としての道なのだから。      (こばやし いずみ)

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