トンガ王国憲法と民主化運動
苫小牧駒澤大学助教授 東裕
出所:憲法政治学叢書2「憲法における東西事情」憲法政治学研究会編 、成蹊堂(2000年)、pp.162-191
はじめに
一、 伝統社会の構造
1470年 ツイ・ハア・タカラウアⅠ世即位(~??世/1799年戦死)
1610年 ツイ・カノクポルⅠ世即位
1852年 カノクポル朝第19代・ツポウⅠ世(1845~93在位)/トンガ全土を統一
1875年 1875年憲法(Constitution of Tonga, 1875)
1879年 英・トンガ友好条約調印
1900年 英・トンガ友好保護条約締結、外交と国防をイギリスに委ねる。
1918年 カノクポル朝第21代・サローテ女王(1918~65在位)
1965年 カノクポル朝第22代・ツポウⅣ世(1965~)
1970年 英・トンガ友好保護条約全面改正発効、外交権を確立、完全独立。
1975年 1975年憲法(Constitution of Tonga, 1975)
1988年 1988年憲法(The Constitution of Tonga)
① 国会の解散権・召集権(38・77条)、 ② 教書提出権(40条)、③ 法律制定権(56条)、④ 法律の裁可権(41条)、 ⑤ 統帥権・戦争権限(36条)、⑥ 恩赦権(37条)、⑦ 外交権(39条、40条)、⑧ 栄典の授与(44条)、⑨ 通貨の制定(46条)、⑩ 戒厳令布告権(46条)、⑪ 国土の処分権(48条)、⑫ 枢密院議員の任命権(50条)、⑬ 枢密院令の議決権(50条)、⑭ 大臣任免権(51条)、⑮ 知事の任命権(54条)、⑯ 国会議長任命権(61条)。
1)財産権の保障(1条)、 2)奴隷的拘束の禁止(2条)、 3)外国人労働者との労働契約(3条)、 4)法適用の平等(4条)、 5)信仰の自由(5条)、 6)安息日の遵守(6条)、 7)表現の自由(7条)、 8)国王又は議会への請願権(8条)、 9)人身保護法の適用(9条)、 10)罪刑法定主義(10条・14条)、 11)刑事手続きの保障(11条・13条・14条・16条)、 12)二重処罰の禁止(12条)、 13)裁判官の中立(15条)、 14)国王の公平な統治(17条)、 15)政府の義務と国民の権利保障(18条)、 16)財政民主主義(19条)、 17)遡及法による権利制限の禁止(20条)、 18)兵士に対する特別法・特別裁判所の禁止(21条)、 19)王国警備隊の特権と国王の統帥権(22条)、 20])権の停止・恩赦(23条)、 21)公務員の兼職禁止(24条)、 22)称号等の継承(27条)、 23)陪審員の資格(28条)、 24)帰化(29条)。
「国民と国王の文化的関係は、政府効率に貢献する要因である。トンガが国王を持つのは、社会が王制を支持してきたからであり、トンガ国王権威は、憲法上認められた国王の権威をはるかに越えている。国王の権威の90%は、憲法の中にあるのではなく文化の中にある。トンガ国王の権力は、憲法と文化という2本の足の上に立脚するが、たとえばニュージーランドの政治指導者は、法制度という1本の足だけで立っていて、文化的基礎を欠いている。
(注)
(1)トンガ王国の概要については、外務省アジア局・欧亜局・中近東アフリカ局監修『最新版アジア・オセアニア各国要覧』、東京書籍、1995年、248-251頁参照。
(2)Emiliana Afeaki, Tonga:the last Pacific Kingdom, Politics in Polinesia, University of the South Pacific 1983. p.58.
(3)Ibid., pp.58-59.
(4)Ibid., p.72.
(5)太平洋島嶼諸国ではキリスト教が広く信仰されているが、なかでもトンガはもっともつよく安息日が守られている。このことは伝統的生活様式を維持する上で重要ではあるが、反面経済発展を阻害する要因にもなっており、伝統と発展の調和が求められている。(東 裕「トンガの産業開発と伝統社会の変容」、『太平洋諸国の産業開発と伝統社会の変容ーサモア・トンガー』、社団法人日本・南太平洋経済交流協会、平成12年、96頁)このことは、いずれ憲法問題の一つになる可能性を秘めていると考えられる。
(6)Emiliana Afeaki, ibid., pp.59-62. 青柳まちこ『トンガの文化と社会』、三一書房、1991年、9-22頁参照。
(7)Ibid., p.59.
(8)Ibid., pp.59-60.
(9)Ibid., p.60.
(10)Ibid., pp.60-62.
(11)Ibid., p.62. シオネ・ラツケフは、憲法制定へと国王ジョージ・ツポウ一世を駆り立てた主要な動機は、トンガの独立を維持するために列強からその承認を取り付けることと、国王の死後のトンガの国内的安定と統合を確保しうることであった、と指摘する。(Sione Latukefu, The Tongan Constitution: A Brief History to Celebrate its Centenary, Tonga Traditions Committee Publication, 1975. )その後の歴史から明らかなように、ベーカーとツポウⅠ世の憲法制定にかけた目的は疑いなく達成された。また、当時のサモアやフィジーでは植民者の勢力が強まりつつあったことが国王やベーカーの危機感を高め、近代的政府の形成こそがトンガを西欧勢力による乗っ取りから国家を防衛することになると考えられていた。(I.C.Campbell, Island Kingdom Tonga Ancient & Modern, Canterbury University Press, 1992, p.76)
(12) Campbell, ibid., p.78.
(13)トンガ憲法については、Sione Latukefu, The Tongan Constitution: A Brief History to Celebrate its Centenary, Tonga Traditions Committee Publication, 1975.、Laws of Tonga(1988 ed.)、 西 修「(資料)トンガ王国憲法」、法学論集第26号(駒澤大学法学部)、1983年、67-92頁、及び浦野起央・西 修編『資料体系アジア・アフリカ国際関係政治社会史』(第6巻憲法資料(アジアⅢ))、パピルス出版、1675-1692頁、参照。
(14)Afeaki, ibid., p.66.
(15)Ibid., pp.64-65.
(16)Ibid., p.65.
(17)Ibid., pp.64-66.
(18)Ibid., p.57.
(19)Ibid., p.68.
(20)Ibid., p.70.
(21)Ibid., p.71.
(22)Ibid., p.71.
(23)須藤健一「トンガ王国の民主化運動」、国立民俗学博物館地域研究企画交流センター編『オセアニアの国 家統合と国民文化』連携研究成果報告2、平成12年、所収。トンガの民主化運動の発生から展開、そして現状に至るまでについては、本論文に詳しい。
(24)MATANGI TONGA, Oct.-Dec.1997., p.5. 及びこれを紹介したものとして、東 裕「トンガ民主化の射程ー民主化=立憲君主制の純化?」、「ミクロネシア」通巻107号、平成10年、14-15頁。
(25)Ibid., p.5. 「前掲論文」、15頁。
(26)’I. F. Helu, Democracy Bug Bites Tonga, Culture and Democracy in the South Pacific, p.145, 1992, USP.
(27)MATANGI TONGA, Oct.-Dec.1997., p.14. 「前掲論文」、25-26頁。
(28)Ibid., p.17. 「前掲論文」、27頁。
(29) Ibid., p.13. 「前掲論文」、28頁。
(30)Ibid., p.13. 「前掲論文」、29頁。
(31)Ibid., p.16. 「前掲論文」、31-32頁。
(32) 須藤「前掲論文」、も民主化論者について次のように指摘している。「この運動を推進してきた政治的指導者ポヒヴァをはじめ改革は議員、教会や教育界のリーダーやビジネスエリートマンは、いずれも立憲君主制を肯定し、より民意を反映でき、より多くの平民が参加できる政府や議会政治の実現を目標としている」(105頁)。また、アキリシ・ポヒヴァ自身、反君主制論者ではないことを5期目の当選を果たした昨年3月の総選挙後の雑誌インタビューで語っている。(MATANGI TONGA, April-June. 1999., p.20-26)