「ビケタワ宣言の国際法的考察:介入か援助か?」
岐阜女子大学南アジア研究センター特別研究員
高橋秀征(たかはし ひでゆき)
目次
(2) 宣言の内容
(3) 宣言の適用例:ソロモン諸島紛争への対応
(4) 宣言の効力と問題点
(5) さいごに
はじめに
本論は、ビケタワ宣言採択の経緯や内容を解説し、次に宣言の適用例をソロモン諸島紛争のケースに当てはめて考え、さらにビケタワ宣言の国際法における位置付けや問題点にも触れたい。最終的に、このビケタワ宣言が、太平洋島嶼地域の安全保障に関する何らかの規範となっているのかという点にも踏み込んでみたい。
1996年3月に保守政権に移行したオーストラリアは、1998年の停戦監視を目的としたブーゲンビルへの軍隊の派遣を皮切りに、1999年の陸・海・空三軍合同による緊急展開部隊の編成、東チモールへの平和維持軍派遣、そして国内外から非難を受けた9月のいわゆる「ハワード・ドクトリン」発言(11)と、着々と労働党政権時の軍事的不介入の原則を変更し、オーストラリアを取り巻く地域紛争への軍事的アプローチを積極的に採用してきた。またアレクサンダー・ダウナー外相は、ビケタワ宣言が採択される前の2000年7月17日、シドニー・インスティチュートでの演説で、国際社会が紛争解決の際にとるべき手段として、制裁や国際司法制度と同様に、軍事的介入の重要性を強調している(12)。特に1999年の東チモールへのオーストラリア軍の派遣は、ベトナム戦争以来の海外派遣であったのみならず、史上初のオーストラリア主導の軍事的措置であった。そして死者なしに平和維持の任務が遂行され、一定の成果が得られた結果、当局は地域紛争への介入や支援に大きな自信をつけたのである。
そして第2条(iii)にはフォーラムとしての措置を決定するために緊急外相会議を主宰するとある。この外相会議では、以下に述べる7つの中の1つ、または複数措置の決定ができることになっている。その措置とは、
(a) フォーラム加盟諸国の意見を代表した声明の発表
(b) 閣僚行動グループの創設
(c) 事実調査、またはそのような委員会の設置
(d) 賢人グループの創設
(e) 第三者による仲介
(f) 紛争解決を支援する機関やメカニズムへの支持
(g) フォーラム地域安全保障委員会の高官レベル特別協議、もしくはフォーラム特別閣僚会議の開催
また、ビケタワ宣言の付属文書Aは、紛争解決措置を行う際に、7つのガイドラインを定めている。それを要約すると、
(ii) 紛争解決のための公正・公平な仲介
(iii)整合性を持った紛争解決手段
(iv) 措置の継続性と完結性
(v) 他の国際機関・地域機関との協力
(vi) コンセンサスを得られるような紛争解決
(vii)介入(intervention)の際は、コスト効率良く行わなければならない
一方、フィジーは、ビケタワ宣言が加盟国への制裁を課すものになるのを防ぐために “内政不干渉の原則”を宣言に盛り込むように要求し、各国から支持された。その原則は第1条のはじめの部分に謳われている。その宣言の第1条は、
「太平洋諸島フォーラム加盟国首脳は、1995年の“良い統治”に関する8原則と、1997年のアイトゥタキ宣言を想起した。地域協力の更なる発展とこれまでの安全保障への取り組みをいっそう発展させることを目的として、加盟国の内政への不干渉の原則を踏まえつつ、加盟国はいくつかの行動指針・方針を明確にする。」
(i) “良い統治”(Good Governance)の実現に取り組む
(ii) 加盟国個人の不可分な政治参加の権利の尊重
(iii) 民主的政治過程や機能を支持
(iv) 公正な経済的・社会的・文化的発展への認識
(v) 文化的価値や伝統、習慣などの尊重と保護
(vi) 加盟国の安全保障の脅威に対する脆弱性(Vulnerability)を認識
(vii) 紛争の平和的解決
しかし域内の民主化支持やその促進を明示した(i)・(ii)・(iii)は注目すべきであると考える。制裁か内政不干渉かで議論が分かれた上述の介入の問題の根幹は、フィジー問題に端を発している。2000年7月、誕生したばかりのフィジー・ガラセ政権に対し、オーストラリアとニュージーランドは限定的な制裁(17 )を行い、フィジーはそれに強く反発していた。また他の太平洋諸国は、両国の制裁に参加しなかった。その問題が、結局同年10月のフォーラム首脳会議に持ち込まれたのである。つまりはフィジー問題を含めて、今後フォーラムとして、制裁という“強制力”によってフォーラム加盟諸国の民主化を促進しようとする民主主義国のオーストラリアやニュージーランドと、それに反対する民主主義国家とは言い難い当時のフィジーなどの意見が対立し、結局前者の主張は支持されなかった。ところが、少なくとも地域内の民主化支持とその促進を宣言に明記したことは、政治体制が様々に異なる太平洋諸国にとり、民主主義政治体制の実現というある一定の方向性を示したものとして注目される。従って、2000年に起きたフィジーのケースように、武力で権力を奪取するようなことが今後起きた場合、その政権に対する風当たりは強まりそうである。
この外相会議では、ビケタワ宣言に基づいたオーストラリアの援助パッケージ案が、すべてのフォーラム加盟国によって支持された。これは宣言第2条(iii)の(f)で述べられている“紛争解決を支援する機関やメカニズムへの支持”に当たる。この支援及び介入は、フォーラムとしての決定だが、フォーラム自体は軍隊や警察を持っていないため、実際はオーストラリアの率いる多国籍軍により行われた。後にソロモン諸島地域支援団・RAMSI(The Regional Assistance Mission to The Solomon Islands)と命名されたこの地域的安全保障措置(26)は、2003年7月24日にソロモン諸島とオーストラリア、ニュージーランド、パプア・ニューギニア、フィジー、トンガ、サモアの間でソロモン諸島への軍隊や警察の派遣を定めた多国間の協定(条約)の締結によって、国際法上正当化された。協定を締結した各国は、直ちにソロモン諸島に軍や警察を展開している(27)。 そして現在までのところ、RAMSIはソロモン諸島の治安回復に成功し、その任務を終了して大半は撤退した。
また同じ対処方法に関して、軍事・経済援助のみに限定するのか、それとも軍事的・経済的制裁を含めた介入にその範囲を広げるのかを巡り、実質的なコンセンサスがフォーラム加盟国内にできていないと考える。上記で触れたように、ビケタワ宣言が採択された際、紛争への対処方法を巡り、オーストラリア・ニュージーランドなどのいわゆる「介入派」が経済制裁を含めた方法を主張したのに対し、フィジーなどの「援助派」が主権絶対尊重の立場から反対し、結局後者の意見が多数を占めたため、ビケタワ宣言に“制裁”という文言は記載されなかった。これに介入派はかなり不満を示し、コンセンサスを信条とするフォーラムに大きな亀裂が走った。2002年8月にフィジーで開催された第33回フォーラム首脳会議で、安全保障に関する新たな宣言である「ナソニニ宣言」が採択されたが、その際にも結局制裁という文言は見られず、介入派の主張は再び受け入れられなかった。
(1) Ben Reilly “The Africanisation of the South Pacific” Australian Journal of International Affairs (Deakin, ACT, Australia), Vol. 54, No. 3, 2000, p. 261-68.
(2)ハワイ大学東西センター・Pacific Islands Reportのホームページから抜粋。
(http://archives.pireport.org/archives/2000/october/10-31-06.htm)
(3)Ibid
(4)Robert Keith-Reid ‘The Tensions of Tarawa’, Islands Business (Suva), November/December 2000, p. 19
(5)Gareth Evans and Bruce Grant “Australia’s Foregin Relations: In the World of the 1990s” (Carlton: Melbourne University Press,1991), p. 161-64.
(6)Department of Foreign Affairs and Trade, Government of Commonwealth of Australia,“Advancing the National Interest: Australia’s Foreign and Trade Policy White Paper” (Canberra: Department of Foreign Affairs and Trade, 2003), p. 93.
(7)竹田いさみ「物語オーストラリアの歴史」中央公論新社・東京、2000年、176~80頁。
(8)Stewart Firth “Australia in International Politics” (St. Leonards, Australia: Allen & Unwin, 1999), p. 170.
(9)1994年にブーゲンビルに派遣されたRegional Peace Keeping Forceは、主にフィジー、ヴァヌアツ、トンガの軍隊によって構成された。
(10)Stewart Woodman,’Capacity and Operational Planning’ in J. Mohan Malik (ed.),
“Australia’s Security in the 21st Century” (St. Leonards, Australia: Allen & Unwin, 1999), p. 206 .
(11) Fred Brenchley, “The Howard Defence Doctrine” The Bulletin (Sydney), September 28, 1999, p. 22-24. 同誌のフレッド・ブレンチレイ記者とハワード首相に対するインタビューの中で、オーストラリアの周辺諸国への軍事的なものを含めた積極介入と、それに対する防衛費の増加など、一連の首相の発言を「ハワード・ドクトリン」と総称した。
(12)“Increasing Interconnectedness: Globalisation and International Intervention”と言う題でダウナー外相は演説をした。http://www.dfat.gov.au/media/speeches/foreign/2000/000717_intervention.htmlを参照。
(13) Keith-Reid, op. cit., p. 20.
(14) Fiji Times, October 30, 2000, p. 3. ニュージーランドのクラーク首相は、ビケタワ宣言の抽象化を狙ったフィジーのガセラ政権に大変不満を持ち、もし2001年の太平洋諸島フォーラム首脳会議がフィジーにおいて開催された場合、参加をボイコットすることを示唆したと、翌々日のFiji Times誌は伝えている。
(15)Keith-Reid, op. cit., p. 19.
(16)太平洋地域の安全保障に対する脅威や、それに対する脆弱性は、1997年のアイトゥタキ宣言が言及している。アイトゥタキ宣言は、自然災害や環境破壊、国家主権に対する暴力的挑戦、麻薬取引などの国境を越えた犯罪を太平洋地域の安全保障に対する脅威と捉え、それに対する脆弱性を認識しつつ、それに対してフォーラムやその加盟国は素早く対応しなければならないと述べている。
(17)芳島昭一 “フィジー・クーデター:クロノロジー”「パシフィック ウェイ」No. 115, (Summer 2000), p. 33-34. 両政府は、ジョージ・スペイト氏率いる先住民系武装集団の要求をほぼ全面的に受け入れたフィジーのガセラ政権に不満であり、ニュージーランドは高官訪問の一時停止、国防軍の共同演習、計画の破棄など軍事関係の見直し、開発援助の半減など、オーストラリアは、共同軍事行動の停止、スポーツ交流の停止、在フィジー総領事館の一時閉鎖等の制裁を行った。
(18)小柏葉子 “ソロモン諸島における民族紛争解決過程-調停活動とその意味”「広島平和科学」No. 24 (2002), pp. 177-195.
(19)Elsina Wainwright “Responding to state failure -the case of Australia and Solomon Islands” Australian Journal of International Affairs (Deakin, ACT, Australia), Vol. 57, No. 3, pp. 485-98.
(20)岩田哲弥 “ソロモン諸島紛争の一断面-ハロルド・ケケを巡って-”「パシフィック ウェイ」 No. 123 (Spring 2004), p. 17-26.
(21)玉川浩紀 “ソロモン諸島の財政動向”「ミクロネシア」1998年(通巻109号)pp.32-45.
(22)Philip Alpers and Conor Twyford “Small Arms in the Pacific: Occasional Paper No. 8” (Geveva: Small Arms Survey, Graduate Institute of International Studies, 2003), p. 24-27. これらの武器は、自前で製作したものや警察から強奪したものもあるが、紛争が終結したブーゲンビルからも流入しているようである。
(23)Wainwright, op. cit., p. 487-88.
(24)Pacific Islands Forum Press Statement 9801 (November 27, 2001). この声明は、グループの代表であったMr. Maiava Ilulai Tomaによって発表されている。ちにみにMr. Tomaは、当時サモア国のオンブズマンを務めていた。
(25)このグループの代表は、フィジーのFilipe Bole元外相であり、そのほかにもオーストラリアのグレン・アーウィン元大使、元太平洋フォーラム漁業委員会(Fisheries Agency)代表のフィリップ・ムラーが加わっている。
(26)またの名を‘Operation Helpem Fren’と呼ぶ。
(27)2225名で構成されたRAMSIは、先にも述べたとおりオーストラリア主導であり、オーストラリアは1,500人の軍隊と155人の警察官を派遣した。
(http://www.pm.gov.au/news/interviews/Interview382.htmlによる)
(28)吉村祥子「国連非軍事的制裁の法的問題」国際書院・東京、2003年、361~86頁。
(29)村瀬信也“現代国際法の動態”、村瀬信也、奥脇直也、古川照美、田中忠著「現代国際法の指標」有斐閣・東京、1994年、33頁。
(30)これらの国はアメリカやオーストラリア、ニュージーランドなどの大国と軍事・安全保障協定を結んでいない。ちなみにマーシャル諸島、ミクロネシア連邦、パラオはアメリカと自由連合協定を、サモアはニュージーランドと安全保障協定を、クック諸島、ニウエはニュージーランドと自由連合協定をそれぞれ締結している。またオーストラリアはナウルの安全保障の責任を負っていると言われている。フォーラムが容認したソロモン諸島地域支援団・RAMSI派遣が、紛争解決を早めたのではないか。ソロモン諸島での実績を踏まえ、今後もフォーラムはビケタワ宣言に則って、積極的に域内で発生した紛争に関わってゆくであろう。