ニューカレドニア・多文化社会構築への一提言(*)
―NZワイタンギ審判所方式の導入を考える―
1.はじめに―問題の所在
そこで本稿では、ニュージーランドのワイタンギ審判所の事例に着目し、この方式が同じくニューカレドニアの多元的社会に適応できるものかどうかを検討してみたい。ニュージーランドでの成功例をニューカレドニアにも導入できる可能性があるのであれば、ここにも協調的多文化社会の出現が望めるからである。なお、現時点では、ニューカレドニア内部からは、ワイタンギ審判所に類似した組織の導入といった議論は起っていない。
2.ニューカレドニアにおける多元的エスニシティの背景
第二次世界大戦後、ニューカレドニアは正式にフランスの海外領土となり、カナクもフランス国民となった。しかし、政治経済は依然としてフランス系移民及びその子孫(カルドーシュ)たちが支配的地位にあり、とりわけニッケル産業は本国フランスおよびカルドーシュのみに莫大な利益をもたらしていた。1960年代に空前のニッケルブームが起り深刻な労働不足が生じると、フランス本国からの白人に加え、同じくフランスの統治下にあったウォリス・フトゥナからのポリネシア人やアジア人が労働者として積極的に受け入れられた。こうして現在のニューカレドニアは、先住民系カナク、欧州系カルドーシュ、ポリネシア系およびアジア系という多元的なエスニシティ構造を持つに至ったのである(5)(表2参照)。
表1 ニューカレドニアの人種別人口の推移
年 | カナク人 | フランス人 | その他 | 全 体 |
人口数(人) | 人口数(人) | 人口数(人) | ||
割合(%) | 割合(%) | 割合(%) | ||
1887 | 42,500 68.0 |
18,800 30.1 |
1,200 1.9 |
62,500 |
1901 | 29,100 53.5 |
22,750 41.8 |
2,550 4.7 |
54,400 |
1911 | 28,800 56.9 |
17,300 34.2 |
4,500 8.9 |
50,600 |
1921 | 27,100 57.1 |
14,200 29.9 |
6,200 13.1 |
47,500 |
1931 | 28,600 50.0 |
15,200 26.6 |
13,400 23.4 |
57,200 |
1946 | 31,000 49.4 |
18,100 28.9 |
13,600 20.7 |
62,700 |
1961 | 41,190 47.6 |
33,355 38.6 |
11,974 13.8 |
86,519 |
1969 | 46,200 45.9 |
41,268 41.0 |
13,111 13.0 |
100,579 |
1976 | 55,598 41.7 |
50,757 38.1 |
26,87 20.2 |
133,233 |
1983 | 61,870 42.7 |
53,974 37.1 |
29,524 20.2 |
145,368 |
出所)Ingrid A., Kircher, The Kanaks of New Caledonia, London; the Minority Rights Group Report no.71, 1986, p.19 に掲載の表をもとに作成。
表2 ニューカレドニアのエスニィティ構造
出所)CIA Factbook, 2002: (http://www.odci.gov/cia/publications/ factbook/geos/ps./html)のデータをもとに作成。
3.エスニック・グループ間の対立構造の概要
この先15年の内に独立の是非を本格的に検討するニューカレドニアにとって、こうしたエスニック・グループ間の対立問題は避けることのできない最大の課題である。したがって、仮に独立を達成しても、こうした対立構造を解消するための何らかのシステムが構築されない限り、国家としての安定性は望めないであろう。そこで、注目に値するのが先住民と移民の協調的関係を築いているニュージーランドの事例である。
4.ニュージーランドにおける史的類似性と現在の多文化社会
ポリネシア人としてマオリは、概してカナク他の太平洋諸島民と同様に、土地との紐帯に基づく伝統的な部族社会を構成していた(14)。しかし、ニュージーランドもまた、ヨーロッパ人航海士によって発見され、その後捕鯨船員や商人、あるいはキリスト教宣教師らが来島するようになり、1840年のワイタンギ条約によってイギリスによる統治が開始された。植民地開拓の中でイギリスからの移民が増大すると土地の需要が高まり、マオリの伝統的部族領域である土地の売却を強要されたり、強制的に収用されていった。そのため、1860年代にはマオリの不平不満が最高潮に達し、各地で大規模なマオリの抵抗闘争が起ったが、いずれも徹底的に鎮圧された。マオリ人口は戦死やヨーロッパ人のもたらした疫病の結果として激減し、伝統的な部族システムは崩壊した。その一方で、マオリから土地や資源を収奪することに成功したパケハの政治的・経済的優位な地位が、確固たるものとなっていったのである(15)。
表3 カナク・マオリ関連略年表
カナーキー/ニューカレドニア | アオテアロア/ニュージーランド | |
B.C. 4千年頃 |
カナクの祖先たちが移住 | |
900年頃 | 伝説の航海士クペが到達、アオテアロアと名付ける。マオリの祖先たちが移住 | |
1642年 | エイベル・タスマンが来島、ニュージーランドと名付ける | |
1769年 | ジェームズ・クックが来島 | |
1774年 | ジェームズ・クックが来島、ニューカレドニアと名付ける | |
1788年 | ラ・ペルーズ、ソロモン諸島近海で遭難 | ―商人・猟師らの来島、交易が始まる― |
1791年 | ブルーニ・ダントルカストーが来島 | |
1814年 | 英国宣教師団来島 | |
1827年 | デュモン・デュルヴィルが来島 | |
1834年 | 英アリゲーター艦派遣、マオリ国旗が選定 | |
―交易商人の来島が増加― | ||
1835年 | マオリ統一部族連合、独立宣言 ―植民地開拓会社、英仏間で競争激化― |
|
1840年 | 英プロテスタント系宣教師団来島 | 英・マオリ、ワイタンギ条約締結 仏入植者一団、アカロアに到着 |
―土地売買交渉本格化、英国人の移住開始 | ||
1846年 | 仏カトリック系宣教師団来島 | |
1853年 | 仏、カナクを制圧、一方的領土宣言 | ―入植者の急増、土地売買契約の強要、不当な取引、強制収用、各地で抗争が始まる キンギタンガ運動、マオリ王国宣言 |
1855年 | 土地所有権に関する布告 カナクの伝統的土地制度の否定 |
|
1860年 | タラナキ戦争 | |
1863年 | ニッケル鉱が発見される | |
1865年 | ―ニッケルラッシュ、移民が急増する― | ワイカト戦争、ベイオブ・プレンティ、イーストケープへ拡大 |
1870年 | マオリ戦争終結、多くの土地が没収される | |
1875年 | ニッケル生産世界一を記録 ―多くのカナクの土地が収用される― |
―マオリ人口の激減、部族制度崩壊が拡大― |
1878年 | アタイ蜂起、カナク戦争勃発 | コタヒタンガ運動 |
1917年 | カナク諸族長蜂起、カナク戦争勃発 カナク人口の激減、部族制度崩壊が拡大 |
ラタナ運動、キンギタンガ運動再開 |
ポリネシア系・アジア系移民増加 | ||
1946年 | 仏連合の海外領となる | |
1953年 | ―マオリ人口、1840年代の数値に回復― マオリ問題法制定、マオリ問題省発足 |
|
1958年 | フランスの海外領土となる | |
―カナク人口、1850年代の数値に回復― | ||
1969年 | レッド・スカーフによるデモ激化 | |
1970年 | カナク政党UM結成 | |
1974年 | 1878年グループ結成 ―カナクグループと警察との衝突急増 |
マオリ問題法改正、マオリの定義拡大 |
1975年 | カナク独立達成調整委員会結成 | ワイタンギ条約法、ワイタンギ審判所発足 |
1978年 | RPCR結成 | |
1979年 | カナク独立派政党、FIを結成 ―カナクグループの独立運動激化― |
|
1984年 | カナーキー共和国臨時政府樹立 | |
1985年
1987年 |
―暴力事件、爆弾テロ、銃撃戦が増加住民投票で98%が残留支持 | ワイタンギ審判所の権限拡大、遡及的調査 審判員3名から7名に増員、4名がマオリ マオリ言語法、マオリ語の公用語化 |
1988年 | ウヴェア島で憲兵隊人質事件発生 ―カナク抵抗運動、最高潮に達する― マティニョン協定合意 |
漁獲高の10%相当分をマオリに配分 審判員16名に増員、人種規定を廃止 |
1990年 | 北部州、SMSPを購入 | |
1991年 | ニッケル配分問題の棚上げ ―デモ・ストライキの激化― 路上封鎖、衝突、流血事件の発生 |
マオリ問題省再建改正法、マオリ発展省 シーロード社3分の1株式がマオリに配分 |
1998年 | ヌメア協定合意 | |
2001年 | セントルイスでグループと土地紛争発生 ウォリス人コミ二ティとの間で銃撃戦 |
審判所への提訴数870件を超える |
2002年 | ゴロでニッケル工場建設、カナクの抵抗 運動により一時停止 |
このマオリの不平が暴力に発展するのを抑止し、問題の解決に向けて両者の間に協調的な雰囲気を創出している最大の要因は、ワイタンギ審判所の存在とその紛争処理方式にあると考えられるのである。
5.ワイタンギ審判所の制度と役割
したがって、ニューカレドニアにおけるカナクと他のエスニック・グループ間の対立問題と比較した場合、マオリにとってはヨーロッパ的な視点だけではなく、自らの慣習にそった方式の中で和解にむけた協議の場が確保されている。そして、何よりも重要なことは、そうした協議の場が確保されていることによってマオリは、問題の解決に際し暴力の行使という手段をとる必要がないのである。
6.おわりに―「ヌメア審判所」による多文化社会の構築
現在のニューカレドニアにおける取り組むべき最大の課題は、エスニシティの対立の解消であり、具体的には土地や資源をめぐる問題の解決にある。しかしながら、ここで土地や資源をめぐる具体的な配分方法を定めるなどの解決策を予め提示する必要はない。本稿でいうところの「ヌメア審判所」のような機関が創設され、各エスニック・グループの当事者たちがそこで協議した結果、合意に達することが最適の解決策なのである。ニューカレドニアやニュージーランドに限らず、土地や資源の配分をめぐる問題は多元的な人種構成からなる国家にとって永遠のテーマである。それでもなお、多文化的国家を形成維持していくためには、グループ間の対立ではなく協調的態度を育成していくことが肝要である。そこで、ニューカレドニアにおけるワイタンギ審判所方式は、多文化社会構築への一つの指標となりえるのではないだろうか。/div>
(27) “The Waitangi Tribunal, Te Ropu Whakamana i te Tiriti o Waitangi: 25 Years of Service 1975-2000″, Mana, no.38(October-November 2000), pp.38-43.
(*) 本稿は、2003年11月8日の太平洋諸島地域研究所第1回研究大会(於:アジア会館会議室)にて著者が行った研究報告「ニューカレドニアにおけるワイタンギ審判所方式の可能性」の内容をもとに論文化したものである。