一般社団法人太平洋協会のウェブサイトです

マーシャル諸島共和国における観光業の現状と課題

  • HOME »
  • マーシャル諸島共和国における観光業の現状と課題

マーシャル諸島共和国における観光業の現状と課題

早稲田大学大学院
黒 崎 岳 大


1.はじめに

 2007年は、マーシャル諸島の観光業にとって新しい時代の幕開けとなった。日本航空(JAL)が2月および3月に、マーシャル諸島共和国の首都であるマジュロに直行チャーター便を開設することを発表した。マーシャル政府および観光に携わる民間企業は、数年来日本からの直行便の就航を要請してきただけに、今回のチャーター便開設を「建国以来、観光産業の成長にとって最大のチャンス」と評価し、自由連合協定の改定以後、低迷が続く国内経済にとって起爆剤となることを期待している。その一方で、マーシャル側が期待するように、観光業をマーシャル経済の牽引車となるまでに成長させていくには、インフラ整備をはじめとして解決しなければならない課題が山積していることも事実である。

 本稿では、マーシャル諸島共和国の観光業に対する政府の取り組みと現状を述べ、今後の観光開発の可能性について論じていく。そのためにまず、過去4年間の観光業の状況について、観光局(MIVA)が作成した『2003年訪問者調査報告書』(1)などをもとに実情を把握する。次に米国信託統治領からの独立以降、マーシャル政府が作成した3つの国家開発計画(『第1次5カ年計画』(2)、『第2次5カ年計画』(3)および『METO2000』(4))の記述をもとに、政府による観光開発政策を明らかにしていく。さらに、マーシャルにおける観光対策の中心的役割を果たすMIVAの活動と今回のJALチャーター便開設にいたるまでの経過について述べ、最後に今後の観光開発の発展にとって重要と思われる要因とその問題点を考察したい。

2.マーシャルにおける観光客の現状

 本章では、MIVAが作成した『2003年訪問者調査報告書』および2004年に行なったMIVA調査における観光業の記載をもとに、観光客の傾向について記していく。
 まず首都マジュロへの訪問者数は1999年以降増加傾向にある。2001年から2004年までの4年間で、3563人増加した(表1、約65%増)。しかし、その内観光滞在者の割合だけ取り上げると、その数は2001年から2003年は減少傾向にあった(103人減、7%減)。
 これについて、観光局は、2001年に起きた同時多発テロや2002年以降アジアの各地で流行したSARSの影響による世界的な観光業の不振にあると認識している。事実、2004年には前年に行なった政府主催の観光キャンペーンの成果もあって、観光客の数も急増した(前年比約94%増)。

 その中で、2000年以降急激に増加しているのが日本からの観光客である。1999年には僅か100人であった日本からの観光客数が、翌年には856人に増加し(856%増)、それ以降も800~1000人の間を推移している(5)。2003年のアンケート結果では、観光客の中に占める日本人の割合は35%に達し、米国42%)に継いで2番目となっている(表2)(6)。

〈表1 マジュロへの訪問者における観光客の割合の推移〉
  1991年 1996年 2001年 2002年 2003年 2004年
マジュロ訪問者 5872 6116 5444 6002 7195 9007
観光滞在者 947 1113 1483 1445 1380 2683

(出典 2003RMI訪問者調査および2004MIVA調査より筆者作成)

(表1の棒グラフ)

 さらに、各国別の観光客の消費動向を調べると興味深いことがわかってくる(表3)。一日あたりの消費金額では、日本は豪州に続いて2位である。とりわけ日本は、スキューバ・ダイビングや釣りなどのオプショナルツアー代やマジュロ市内での娯楽費支出が最も高い。また宿泊代や土産代も上位に来ている。こうしたことから、日本人観光客はマーシャルの観光にとって、現地の経済に広くお金を落とす、いわゆる「優良観光客」と位置づけている。

 

 

〈表2 アンケートによるマジュロを訪れた観光客の国・地域別割合(2003年)〉
観光客 全訪問者
Guam 5 41
Hawaii 11 54
US Mainland 28 144
Australia 0 17
Other Pacific 4 81
Japan 38 74
Taiwan(ROC) 5 12
Other Asia 5 57
Europe 6 12
All Other Countries 3 56
Not Stated 0 0

(出典 2003年RMI訪問者調査より筆者作成)     (表2・観光客の円グラフ)

 

  しかしながら、日本人観光客は他の地域からの観光客と比較して、一人あたりの滞在日数が短い。表4で示されているように、一人当たりの滞在日数は平均泊である。これは日本からの旅行を考えた場合に、全旅行日程を一週間に設定すると、ハワイもしくはグアムで途中宿泊する関係で、マーシャルでの滞在は3~4日となってしまうのである。米国人は平均10日間以上滞在するのに比べても、日本人の滞在日数の少なさが際立っている。

 

  〈表3 国・地域別観光客の一日あたりの消費金額(米ドル)〉

3.国家開発政策における観光業の位置づけ

3-1.『第1次5ヵ年計画』
 1979年に憲法が制定され、米国信託統治領から独立したマーシャル諸島共和国が経済的及び社会的基盤のインフラの発展と米国との自由連合協定(コンパクト協定)期間中に取り組むプログラムの設定を目的に1985年に策定されたのが『第15カ年計画』である(7)。
 『第一次5カ年計画』では、12章において観光についての取り組みが記載されている。1985年時点では、観光客数は年間3000人程度であり、宿泊施設も首都マジュロ100室およびミリ環礁に10室に限られていた。観光開発に向けての政府の取り組みは消極的であり、観光局は存在していなかった(8)。観光発展を妨げている要因として、海外からの観光客にとって高い航空賃があげられる。また、国内の航空交通としては、ほとんどの離島が週1便であったため弾力的な観光計画を立てられない。さらに首都マジュロは環境破壊や欧米化された建築のため観光資源としての魅力が乏しく、離島は宿泊施設を含めたインフラの欠如や観光地としての魅力を十分に発信できていない点が指摘されている。
 課題の多い観光業に対して、『第15カ年計画』では、観光業を向上させる必要性として、①他の経済セクターへの波及効果の大きさ、②観光業の進展に伴う収入や雇用の増加、③伝統的文化や歴史的遺物を保護する手段として有効、などのメリットがあげられている。これらのメリットを活かすため、マリンスポーツと第二次世界大戦を中心とした歴史文化的特徴を観光開発の基礎作り、離島における交通網の整備や伝統的形式を利用したホテル等の施設の建設を通じた海岸リゾートの整備、離島観光の基地としてマジュロの宿泊施設やリクリエーション施設の改善、マーシャルのみを目的とした観光客と他のミクロネシア地域にも関心のある観光客に対応できるマーケティング及びプロモーション計画の確立、そして航空賃を含めたマーシャルへの観光費用の削減、そして住民へ観光開発のもたらす利益を理解させ享受させることを戦略として提案した。

 こうした観光戦略をすすめていくために、観光事務所の設立、パンフレットやプロモーションビデオの作成、ならびにマジュロ空港にインフォメーションセンターを設置することを目標とした。

3-2.『第2次5カ年計画』
 『第1次5カ年計画』を受け、19919月に策定されたのが『第25カ年計画(1991/92-1995/96)』である。『第1次5カ年計画』以降、マーシャル政府は1991年に「マーシャル諸島観光公社設立法」が国会に提出され可決された。また太平洋地域旅行協会(PATA)やミクロネシア地域観光協議会に加入し、全ミクロネシア域内でマーシャルの観光促進の調整をはかるように進めた。ただし、『第1次5カ年計画』と比較した場合、目標や戦略上は大きな変更点はない。言い換えれば、この5年間でマーシャルの観光にかかわる状況に大きな進展が見られなかったといえる(9)。その中でとりわけ強調されているのは離島観光の促進であった。
 離島開発を重視する理由として、首都マジュロでは失われつつある自然、美しい砂浜やビーチが残されていること、およびジャルート環礁やウォッチェ環礁にある第2次世界大戦の歴史的遺産を観光資源として利用できることがあげられている。このような自然や歴史を観光資源として開発するには、資本と交通網の必要性が述べられている。そして前者に対応するために政府がマーシャル諸島開発銀行の投資を支援するとしており、後者に対しては、離島の社会インフラの整備(宿泊施設の倍増計画等)と同時に国内航空会社エア・マーシャルによる離島への交通網(北部環礁地域への日帰りツアー計画等)の拡大も考えていた。

 また『第25カ年計画』とは別に、観光開発を重点的に進めるための総合計画や民間部門と協力した観光関連事業の促進を行う『観光ビジネス計画』、あるいは国民に観光の重要性を意識させるための『観光啓発プログラム』の策定を進めることを示唆している。

 
3-3.『METO2000』
 199612月にアマタ・カブア大統領が死去してから、それまで大統領自らが進めてきた国家戦略プログラムを再び策定する必要が出てきた。2代目のイマタ・カブア大統領は2001年に失効するコンパクトの経済関係事項に対応するため、1998年に官民から様々な参加者を導入して、第一回国家社会経済サミットを開催し、今後の開発課題と戦略を協議した(10)。
 『METO2000』の中では、観光業は資源開発省の管轄におかれている農業及び漁業分野と並ぶ事業として位置付けられ、産業規模としては小さいが特殊化された潜在性を持っていると述べられている。とりわけ、ターゲットとしているのは米国と日本であり、第二次世界大戦の歴史的遺産を含めた離島での異文化体験と、ダイビングや釣りなどのマリンスポーツを対象とした、ニッチ市場niche marketとしてそのポジションを開拓していくことに重点をおいた。
 このサミットの協議事項を受けて、アジア開発銀行の支援により経済関係者150人への聞き取り調査を行った。その結果を受けて20014月に作成されたのが、『METO2000』である。『METO2000』では、マーシャル経済の現状が指摘され、開発のための中期目標・戦略が示された(11)。

 以上のようにマーシャルでは、独立以降未開発の分野である観光事業促進の必要性が常に述べられてきたが、大規模な開発というよりは、むしろ現状の観光資源を見直して少しずつ市場を広げていくという、やや消極的な姿勢での開発計画に終始してきた。

4.観光政策の実践
MIVAの設立から直行チャーター便就航まで展開~

 上記のような観光分野の計画に関する消極的な姿勢は、実施体制にも反映されている。すなわち、マーシャル諸島観光局(MIVA)への影響である。
 MIVAは、1991年に制定された観光公社設立法に基づいて、1997年に設立された半官半民公社である。公社自体は資源開発省の管轄下におかれている。経営は国からの予算と同時に、国内最大のホテルであるマーシャル・アイランド・リゾートより上がってくる税金で運営されている。また管轄の資源開発省次官や観光関係の民間企業の連合会であるマーシャル諸島観光協会(MITA)の代表で構成される観光委員会が設立され、MIVAの運営状況や人事問題を扱っている。
 初代局長のベンジャミン・グラハムBenjamin Graham 1997-2001は、MIVA設立準備段階から参加し、マーシャル観光が置かれた状況を周辺諸国のデータと比較しながら分析してきた。その結果、グアムは当然のこと、北マリアナ諸島やパラオと比べても15年以上遅れていることをデータで示し、観光政策促進のための計画を提案した。
 観光客のニーズを十分に検討する必要性から、詳細なアンケート調査を実施した。その結果を分析し、2000年までの3ヵ年に観光パンフレットのリニューアルやマーシャル情報についてのブックレットの作成を行った。特にグラハムは、観光で生きる道をダイビングやトローリングにターゲットを絞ったニッチ市場へと開拓していくことを指摘し、この考え方を「METO2000」にも導入した。また観光市場の開拓を進めるべく、1998年以降米国・日本・豪州・NZ16回にわたり展示会を開催した。さらにダイビング雑誌を中心に、マーシャル観光の魅力を伝える特集やイメージビデオの作成を行い、知名度アップを目的とした広告戦略を進めた。
 グラハムが大学院進学のため職務を離れ、任務を引き継いだのはマーク・ステギMark Stage 2002-2004である。ステギは、大統領府に務めていたときに作り上げたネットワークを利用して、政府や米国連邦プログラムから予算を引き出し、その予算を導入して大規模な観光キャンペーンを展開することを計画した。とりわけ、ステギは環境保護と観光振興を結びつけた観光政策を強く打ち出し、マジュロ環礁内の環境整備に力を入れた。2002年には、マジュロ市民のピクニック場として有名であるエネモネ島の開発を行い、さらに2003年には教育省次官である母親の協力のもとで、マジュロ市内公立小学校教師に対して、小学生への環境保護の重要性を啓蒙するプロジェクトを計画し、当国の観光保護局と共同で、小学生によるマジュロ市内の清掃運動を展開した。
 一方で、マーシャル観光の拡大という点で彼が最も重視したのは日本との関係である。観光振興を図るためには日本からの観光客を呼び込む必要性を認識し、2003年以降5年計画で進めたのが「Come See the Marshall Islands!」プロジェクトであった。同計画に基づき、まず200310月に横浜で日本観光代理店協会JATAへのトレード・ショーを実施した。続く20042月には、マーシャルの観光関係機関からなる貿易ミッションを日本に送り込み、旅行代理店や航空会社に対してマーシャルの魅力を紹介する展示会を実施した。当初計画では2004年夏の段階で、MIVAが主催してマジュロ・東京間に直行チャーター便を飛ばし、貿易ミッション展示会に関心を抱いた旅行代理店や航空会社の役員を招待して、マーシャルの魅力を体験してもらうことになっていた。そして、2005年にはマジュロ・東京間の直行便チャーターフライトを定期的に運行するという計画を立てていた。しかし、貿易ミッションの段階で計画の杜撰さが表面化し、ステギの政策に対してMITAから異議が唱えられ、20043月に責任を取る形で事実上解任された。
 ステギの解任以降局長の席は空席であったが、局長補佐のドロレス・デブルム=カティル(Dolores deBrum-Kattil) MIVAの委員会で3代目局長に任命された2005~現在)。就任当初は、20051月には国際便アロハ航空がハワイからマジュロ・クワジェリンへの乗り入れを中止され、2004年度予算では、MIVAの運営費用は3分の1削減されるなど、観光への課題が山積していた。こうした中で、ドロレスは、日本との関係を重視してきたステギの政策を引き継ぎ、最優先事項として取り組んできたのが東京・マジュロ間の直行チャーター便である。
 マーシャルと日本を結ぶ直行便開設の必要性については、1990年代より検討されてきた。アマタ・カブア初代大統領は、国家の経済的自立における観光業の重要性を認識し、とりわけ1992年より就航したパラオへのJALチャーター直行便の成功事例をもとにしたマーシャルへの直行便開設の可能性を模索していた。また、マジュロに住むスリランカ人コミュニティーが中心となって観光及び日本からの貿易品の輸入を目的としてマジュロ・東京間のチャーターフライトを運行する計画が進められている。
 しかし、今回の直行便の開設に具体的な動きがあったのは、2003年以降である。同年8月より、マーシャル政府は外務省とりわけジェラルド・ザキオス外務大臣が中心となってマジュロから成田への直行便の乗り入れの可能性を水面下で探り始めた。また、ダイビングやホテル業界を中心としたマジュロの商工会議所は日本にマーシャル諸島観光促進事務所を設立するとともに、日本の航空会社との接触を進めた(12)。
 これに興味を示したのが、JALであった。JAL側も、近年グアムやサイパンにおける他の航空会社との過当競争が激しく、収益の伸びない地域への定期便の撤退を進めていた。その一方で、「通常のツアーに飽きた旅行者のニーズは多様化し、新たな目的地を提供できるチャーター便需要は高まる」JAL側談話)とし、ダイビング客を対象に成功したパラオに続く新たな太平洋のリゾート地の開発を探っていた。その結果、パラオ国際空港よりも長い滑走路を持つというメリットもあることから、新たな候補地としてマジュロに白羽の矢を立てた。2005年初旬には、パラオへのチャーター便開設を成功させた職員などを密かにマジュロへ派遣し、空港をはじめとした観光インフラについての基礎的な状況の調査を行なっていた。この時点で、すでにJAL側はマジュロへのB767によるチャーター直行便の乗り入れに前向きであった(13)。
 20058月には、JALはマジュロへ第一次基本調査団を派遣し、その結果、①空港滑走路の早急の舗装および誘導路の整備、②JALの規定で決められた空港配備機材(飛行機牽引車など)の購入、③ターミナルの修繕および機材X線検査機)の配置、が課題とされた。この中で、①はこの時点で米国連邦航空局の資金援助による整備が決定しており、③も政府の資金による改装工事が行なわれていたため、②の機材をいかに入手するかが大きな課題となっていた。その一方で、上記三つの課題が克服されれば、JAL側はすぐにでも日本国内でプロモーション活動に移る段階にあるとしていた。
 しかし、滑走路工事の遅れで就航への動きが一時頓挫した。計画では200510月までに終了する予定であったが、滑走路の舗装を行なう建設会社の入札をめぐる法廷闘争や、落札した中国系建設会社舗装用機材の本国からの輸送に手間取るなどの問題が起き、結局完成したのは2006年7月であった。またもう一つの課題であった空港設置機材は、当初日本や台湾などからの機材供与を受ける道を探った。しかし、適当なドナー国を見つけることができず、一時はプロジェクトの中止すら検討せざるを得ない状況にもなったが、マジュロ商工会議所の積極的なロビー活動の甲斐もあって、運輸通信省港湾局への追加予算で購入することで決着した。

 こうしたマーシャル側の努力によって、JAL10月に最終調査団を派遣し、チャーター便の就航を最終決定した。

5.観光開発の課題と可能性

 以上のようなMIVAやマジュロ商工会議所を中心とした観光事業促進への動きの結果、マジュロへの直行チャーター便の開設に至った。これに対し、マーシャルの観光の現状は果たして対応していけるのであろうか。以下、この点について三つの面から検討していく。

5-1.マジュロ観光開発の促進
 マジュロへの直行チャーター便の就航によって、マーシャル観光は当分の間はマジュロを中心とした展開になるだろう。この点は近年MIVAが示した重点目標とも一致している。
 現在マジュロに乗り入れている国際定期線は、ハワイ(ホノルル)とグアム間を往復しているコンチネンタル・ミクロネシア航空が週3便と、破産したナウル航空を引き継ぎ台湾が資本援助を行なっている、フィジー・タラワ(キリバス)・マジュロ・ナウル・ホニアラ(ソロモン諸島)・ブリスベン(豪州)を結ぶ航空便が週2往復している。
 このような交通の不便さは、結果として国際市場からの隔離に繋がる。特にグアムからは途中チューク・ポンペイ・コスラエ・クワジェリンを経由しなくてはならない。とりわけ日本からの観光客にとっては、グアム経由では20時間、ハワイ経由でも18時間かかる。そのためどちらかの経由地でも1泊は必要となり、1週間の旅行プランを計画していた場合、マジュロでの観光は事実上3日ということになる(14)。確かに直行チャーター便の就航により、東京・マジュロ間は約5時間半にまで短縮されたが、これはマジュロでのダイビング・パッケージツアーを念頭においた計画であり、離島観光はほとんど考慮されていない。
 一方、マジュロにおける観光インフラも決して万全とはいえない。現実に空港での通関手続きや荷物の引渡しの円滑な対応、および観光客をホテルへ円滑に送迎することが可能なのかという不確実な問題が多く残されている。現在、コンチネンタル1便あたり平均70人前後の乗客の通関手続きが行なわれるが、荷物引渡しまでに観光客は1時間近く待たされる。また施設面の対応も十分とはいえない。ホテルの客室数は確保できるとしても、娯楽施設は映画館とボーリング場がそれぞれ一軒のみである。また、スキューバ・ダイビングに特化した観光対策を行っているとはいえ、現在マジュロ市内にあるダイビングショップは4件で、現状のままではダイビング客は最大で常時50人程度しか対応できない。さらに、マリンスポーツ以外に見るべき観光資源が限られている点も、今後の戦略を考える上で大きな障害となっている(15)。

 こうした施設面などと同様、現状の観光開発計画で懸念されていることは、フィジーなどと異なって、観光地と市街地が重なりあっている点である。現在マジュロでは凶悪犯罪や事件に遭遇することはめったにない。しかし近年中国人や韓国人が離島から来た少年に襲われるという事件が毎年数件報告されており、観光客が事件に巻き込まれる可能性が皆無なわけではない。むしろ、日本人観光客が一般の人々の生活圏の中に入っていくことによるトラブルも心配される。マジュロ環礁内の土地はすべて私有地であり、服装などでは伝統的な価値観が重んじられている。現在でも、一部の欧米人が勝手に住宅地に侵入する、あるいは街中を水着で歩くのに対して、高齢者層を中心に非難の声があがっている。観光客の行動区域と一般住民の生活圏が未分離の状況が続き、観光開発の成果が一般住民にまで及ばない状況で、両者の間にトラブルが生じた場合、その非難が観光業へ向けられかねないことも認識しなければならないだろう。

5-2.離島観光開発の可能性~エコツーリズムと世界遺産をめぐる問題~
 『第25カ年計画』以来、マジュロと同様、離島地域の観光開発の可能性についても言及されてきた。離島での観光開発を考える場合、現在進められている二つの事例の展開を検討すべきである。一つは、ジャルート環礁などで進められている政府主導の開発であり、他方はビキニ環礁やロンゲラップ環礁ですすめられている地方政府主導の開発である。
 ジャルート環礁は首都マジュロから南西240kmに位置している国内で3番目の人口を抱えるマーシャル南部の中心的な環礁である(16)。環礁の中心地であるジャボールは日本の委任統治領時代に南洋庁ヤルート支庁の首府が置かれていた。しかし、ジャボールを少し離れると、現在もマーシャル独自のカヌーに乗って漁業を営んでいる住民の集落もあり、伝統的な生活が体験できる。また同環礁は日本の委任統治領時代、南洋庁や日本海軍の重要な施設がおかれ、とりわけ環礁北東部の集落であるイミジには、第二次世界大戦時に墜落した戦闘機の一部や指令基地の跡がそのまま放置されている。こうした魅力ある歴史的遺産とほぼ手付かずの自然環境に対して、観光資源としての潜在的可能性を見出したマーシャル政府は、2001年からMIVAとジャルート地方政府が主体となってエコツーリズムの施設作りを進めた。ジャボールから15km離れたジャルートという集落に、伝統的な建築の宿泊施設を建設し、観光客にそこで生活してもらいながらマーシャルの自然と文化の共存を体験してもらうというプログラムを設定した。このプログラムには現在、米国や豪州からの参加者が増加している。しかしながら、当初MIVAや地方政府が期待していた日本からの観光客の参加者は、現在のところほとんど見られない。
 一方、米国からの核被害補償金をもとに、自分たちの環礁の観光開発を進めているのがビキニ環礁及びロンゲラップ環礁地方政府である。ビキニの旧住民は核実験後、ビキニ環礁から遠く離れたキリという孤島に移住しており、ビキニ環礁の放射能除去作業終了後も住民は帰還することなく、観光開発に専念してきた。日米の戦艦サラトガと長門がラグーンに沈められており、世界屈指のレック・ダイビングポイントに挙げられ、米国人が中心となりダイビング・プログラムや宿泊施設も十分整備されている。またロンゲラップ環礁は、住民の再移住計画が進められており、それと協調する形で観光対策も進められている。ロンゲラップ環礁地方政府は、空港のアスファルト舗装を整備し、長期滞在用の宿泊施設も新築した。また、ダイビングやトローリングに対応するため客船を購入した。
 両方の離島開発計画に共通していることは、エコツーリズムを標榜した観光戦略という点である。エコツーリズムに関しては、国内及び国際的に共通した定義は存在しない。日本エコツーリズム協会がエコツーリズムの特徴として、①自然・歴史・文化など地域固有の資源を生かした観光を成立させること、②観光によってそれらの資源が損なわれることがないよう、適切な管理に基づく保護・保全をはかること、③地域資源の健全な存続による地域経済への波及効果が実現することをあげている。つまり、地域独自の自然・歴史・文化資源の保護を進めながら観光開発を行い、観光者にその資源の魅力とふれあう機会を永続的に提供し、その結果、地元住民の暮らしが安定し、資源が守られていくことを目的とする、資源の保護と観光業の成立と地域振興の融合をめざす観光の考え方である(17)。この考え方は、マーシャル観光においてもすでに『第1次5カ年計画』の段階で指摘されており、上記の離島地域の事例でも明らかなように潜在的な資源は備わっているといえる。その一方で、エコツーリズムによってマーシャルの観光業を発展させていくことに関して問題点も多い。
 最大の問題は、国際市場からの交通アクセスの悪さである。前述の通り、従来から離島観光開発の前提として国際市場からマジュロへの交通網の整備が求められている。優良観光客として期待されている日本人観光客にとっては、日本からの交通アクセスの悪さも問題である。ジャルート環礁は国内航空便が週2便あるとはいえ、突然の運休や時間変更があり信頼度は極めて低く、マーシャル観光のオプションとして参加するにはリスクが大きい。結果、日本からの観光客は遺骨収集団等を除いてこれらの離島を訪れることはない。一方、ビキニ・ロンゲラップ両環礁へは国内便が週1便運行している。しかも首都マジュロからはクワジェリン経由で3時間かかり、オプショナルツアーとしては成立しない。確かに日本からマジュロまで2日、ジャルートに来るまでにさらに1日費やさなくてはならない。こうした現状では、1ヵ月以上の休暇をとる文化が根付いていない日本人にとっては、なかなか参加するのが難しい。むしろ、同じエコツーリズムを標榜する取り組みでも、マジュロ環礁内の島に建てられたコテージを利用した観光の可能性の方が期待できる。とりわけ、こうした島に短期滞在ができるコンドミニアムを建築し、マジュロ市内のホテル並みの環境を維持しつつ、離島体験ができるというプログラムの方が、熱帯での離島生活の体験を垣間見たいという観光客をターゲットとした対策になりうるだろう。
 また従来のマスツーリズムが観光業者主体の観光資源開発で成立しえたのに対して、エコツーリズムでは、行政(エコツーリズム推進の支援者)、研究者(資源管理のアドバイザー)や地域住民(エコツーリズム運営の参加・協力者)などの多くの主体が参画しながら、観光資源の保護・利用をしていくという、観光実践体制の整備が求められる。従来型のマスツーリズムに求められる大規模なリゾート開発を必要としないものの、その分多くの利害関係者や計画参画者が関わることになる。この点から見た場合、現在のマーシャルの観光業がおかれた環境は、エコツーリズム型の観光開発に有利に働いているわけではない。確かにマスツーリズム型の開発のような大規模な資本の投入は必要不可欠ではない。ただしエコツーリズムの場合は、関係する人々の積極的な参加がより必要となってくる。上述の通り、政府の観光に対する意識および取り組みは積極的とはいえなかった。また後述するが、地域住民の観光に対する意識も高くない。さらに、地域における資源の科学的・歴史的・文化的価値や意味について、観光客へ情報提供をする研究者の存在が著しく欠けている。結局、現状のマーシャルの「エコツーリズム」も、主体面から見れば、観光業者と観光客が中心という従来のマスツーリズムとあまり変わりがない。
 この傾向は多少の差はあるものの、ミクロネシア連邦やパラオ、あるいは北マリアナ諸島の島々など周囲の太平洋島嶼国・地域でもほぼ同じである。そのため、従来のマスツーリズム時代からの資本投入が進んでいる地域の方が、エコツーリズムにおいても先行しているのが現状である。海洋の自然が観光資源の中心で、宿泊施設など設備が備えられている上記の地域の方がエコツアーへの対応も進んでいる。マーシャルの「エコツーリズム」の展開も、他地域と比較して独自の観光資源の開発・研究が進まなければ、有効な戦略とはなりえないだろう。
 上記の問題に対処するため、まずはマジュロへの交通網を整備するとともに、両環礁とも付加価値を高めるような政策が必要と思われる。近年、他の大洋州諸国の観光業との差別化戦略の一つとして、マーシャル政府とビキニおよびロンゲラップ地方政府が力を入れているのが、ユネスコ世界遺産への登録である。ロンゲラップ地方政府は、ロンゲラップ環礁の周辺にある無人のアイリンナエ環礁の特殊な動植物の生育に注目し、米国の研究機関や国内の環境保護局職員と協力し、「北部環礁地域の動植物の多様性」に関する調査を行なった。その報告をもとに、ロンゲラップ地方政府は世界自然遺産への登録を検討するようになった。一方、ビキニ地方政府は当初は世界遺産の動きには消極的だったが、2005年以降、ビキニ環礁の動植物と同様に、ビキニ環礁にある核実験の跡も世界遺産における「負の遺産」としての価値を認識し、複合遺産としての登録を考えている(18)。

 これに対して、20069月にマーシャル政府はユネスコ世界遺産委員会より両遺産候補地の「顕著で普遍的な価値」を査定するための資金供与を受けた。その結果をもとに、20082月の世界遺産委員会での登録を目指している。両環礁とも世界遺産に登録されることになれば、観光地としての注目度が高まり、観光客が増加する。そうなれば中央政府からも交通網の拡大、整備等の協力が得られることも期待している。

5-3.観光に対する住民の「意識改革」の必要性
 マーシャルの観光促進を妨げている要因として、国民の観光業に対する認識の低さがある。政府も『第25カ年計画』における『観光啓発プログラム』の策定を検討しているように、国家一丸となって観光業の振興を進めようとしてきた。しかし、こうした政府の姿勢は住民側が十分理解しているとはいえない。そもそも住民の意識の中に観光を産業として認識している姿勢が欠けている。
 具体例として、ホスピタリティをめぐる意味についての問題がある。近年観光産業において、従来の「サービス」という概念から「ホスピタリティ」という概念の重要性にシフト転換が行なわれてきている。マーシャル観光でもホスピタリティの重要性が認識されてきている。政府も産学あげて住民への観光教育の向上に力を入れ始めた。2004年度よりマーシャル短期大学に観光ホスピタリティ学科が設立され、学生たちに実際に国内のホテルでの接待の実習を通じて、観光業としてのホスピタリティの育成を行うプログラムが設定された。学科長代理であるアネラ・ピーノはこれについて、「マーシャル人の場合、そのアイランド・スタイルもあって、日本人のように状況に応じた的確な対応を徹底させることは不可能だと思う。だから、せめて笑顔を絶やさないなど観光客を心地よく迎える「ホスピタリティ」の精神を教育することが重要だと思う」と話してくれた(19)。
 しかし、マーシャルの観光業が取り組んでいる「ホスピタリティ」の意味しているところと、実際の観光業で求められている「ホスピタリティ」の間に大きな差異があるということである。服部勝人によれば、観光業などの経営管理における「ホスピタリティ」概念は「サービス」概念を包含するものと考えている。すなわち、産業における「ホスピタリティ」の概念は、「顧客(ゲスト)からの欲求に対して、合理主義にもとづく等価価値を提供する」サービス概念を基盤としながらも、それに加えてゲストの期待感以上の付加的価値の提供も含んでいる。つまり、ホスピタリティは常にサービスを内包しているのである(20)。
 ところが、現実にマーシャルで行なわれている「ホスピタリティ」は、「サービス」の部分が十分対応しているとはいえない。重要なのは時間に対する正確さや、トラブルに対する迅速な対応あるいは観光客本位の、いわゆる「サービス」の部分である。これまでは、マーシャルを訪問した観光客は、すでに多くの発展途上国をまわってきた「ベテラン旅行者」が多く、マーシャル人が体現する不十分な「サービス」も、ある程度、「アイランド・スタイル」として理解を示していた。しかし、直行チャーター便の乗り入れに伴い発展途上国への旅行に慣れていない観光客が増えてきた場合、サービスの不十分さが観光客たちの大きな不満に繋がると予想される。
 さらに、独立以降米国からのコンパクト・マネーや連邦プログラムに代表される豊富な経済援助に支えられてきたため、国民自身に観光業の発展を通じて経済的に自立していくという意識が低いという点も否定できない。国家予算の60%以上が米国からの援助で成り立っており、失業率30.91999年国勢調査(21))という高い割合にもかかわらず、伝統的な大家族制度と比較的恵まれた社会保障制度のおかげで最低限度の生活は送ることが十分可能である。その結果、観光振興に向けたインフラへの投資を行なうなど、積極的に現状を改善していこうとする姿勢はほとんどみられない。

 もっとも、これはマーシャル人のみではなく、現地に住み、政府機関の官僚や民間企業のリーダーとして働く米国人たちにも同様の姿勢が見受けられる。すなわち、観光業振興のために関係事業の設備投資の拡大や効率化をすすめるのではなく、リスクをなくしいかに現状を維持していくかに重点をおいた経営姿勢である。確かに、積極的な観光政策を進めるために大量の投資を行ったとしても、市場から隔離された現状では回収できる保証はない。仮に政府を巻き込んだ大規模な計画を実施したところで、複雑な土地制度や親類同士ゆえにおこる「物事を曖昧に解決する姿勢」の結果、正当な手続きに基づいた投資を行っても、利益に結び付けられないことがしばしば起きている。そのため外国からの投資は困難で、リスクをできる限りなくして運営していくという経営姿勢が定着してきたのであろう。観光に対する国民の意識の低さは、結局は経済援助に依存しきっている国民体質から来ているものであり、今後伝統的制度の改革や国民の意識の変化が進まない限り、常に新たな変化が求められる観光産業の市場に参入し成果をあげていくのは容易ではないだろう、

6.おわりに

 本稿では、マーシャル観光の現状を分析し、国家政策とMIVAの政策からこの国の観光戦略を見極め、観光業の可能性と課題について考察してきた。政府による観光開発は、当初は米国人を対象に離島地域の開発に力を入れてきた。しかし、近年はパラオの成功事例をもとに、日本からの観光客を対象としたマジュロ中心の観光開発戦略にシフトさせていった。一方、離島の観光開発は、ビキニやロンゲラップなどの地方政府主導へと代わり、世界遺産への登録などの他地域との差別化を図る戦略に取り組んでいる。しかし、従来から指摘されてきた、交通網の改善、観光インフラの整備および住民の意識変革という課題への対策は不十分のままであり、JAL直行便の就航に沸くマーシャルの観光業にとって大きな不安材料となっている。
 現在のところ、第3弾以降のチャーター便の予定は確定していないが、JALとしては今回の2便の結果次第で、夏季や年末年始を中心に年10便程度のチャーター便を運航していく予定である。他方で、現在まで日本から観光客を独占してきたコンチネンタル・ミクロネシア航空側も、JALの直行チャーター便の動きに呼応する形で、マジュロへの交通網の整備に力を入れ始めた。2006年には夏季限定ながら週一便グアムからの直行便を就航し、20073月からはこの便を正規便に格上げさせた。観光客の今後の動向次第ではさらに日本からの接続を便利にさせるなどの新たな戦略を打ち出すことも考えられるし、一方で、観光客の伸びに大きな変化が見られない場合は従来のフライト・スケジュールに戻すことになるだろう。いずれにせよ筆者としては、JALのチャーター便開設がマーシャルの観光業及び経済全体に与える影響について、今後も引き続き検討していきたいと思う。」

1 Marshall Islands Visitors Authority (MIVA). 2004 RMI Marshall Islands Visitors Authority 2003 Visitors Survey Report. Majuro.
2 Office of Planning and Statistics. 1985 RMI Five-Year Development Plan 1985-1989 (Rephased For 1986/87-1990/91). Majuro.
3 Office of Planning and Statistics. 1991 RMI Second Five-Year Development Plan 1991/92-1995/96. Majuro.
4 Asian Development Bank (ADB). 2001 Republic of the Marshall Islands METO2000 Economic Report and Statement of Development Strategies. In consultation with the Government of the Marshall Islands. Majuro.
5 2002年に日本からの観光客が12%減少しているが、これはSARSによる日本から海外への観光客減少の影響とされている。
6) マーシャルでの観光に関する統計では、米国本土とハワイ・グアムは別のカテゴリーに区別されている。
7 その後1986年に米国との間で自由連合協定が締結されると、それに基づいて修正された『改訂第15カ年計画(19861990)』が作成された。
8 米国信託統治領時代(19461979)には米国政府により観光対策の部局が存在したが、独立後は一時消滅していた。
9 『第25ヵ年計画』の作成された1991年時点では、マジュロへの訪問者数は約3600人となっている。
(10)一方で、イマタ・カブア政権の下では観光開発の一誘因として、フィリップ・ムラー外務大臣及びトニー・デブルム議員の協力で『ギャンブル法案』を議会に提案した。しかしながらケサイ・ノート国会議長が法案を取り上げず、大統領派と議長派との間で3ヵ月に及ぶ議会の空転劇が起きた。結果、『ギャンブル法案』は廃案となり、1999年の総選挙でノート議長率いる統一民主党が勝利し、翌年1月ノート政権が誕生した。
(11)なお『METO2000』を草案として、2001年再び国家社会経済サミットが開催され、改定コンパクト交渉に対応すべく2003年からの15年間の長期開発計画フレームワークとして策定されたのが『VISION2018』(Economic Policy, Planning and Statistics Office (EPPSO). 2002 RMI Vision 2018 Marshall Islands Macroeconomic and Institutional Master Plan. The Strategic Economic Development Plan 2003-2018.Majuro.)である。この中でも社会的経済的自立の強化の重要項目として観光開発の必要性が述べられている。
(12)1990年代後半には、マーシャル側はJAL以外にも全日空(ANA)との接触も図っている。また、ハワイのアロハ航空の航空機をチャーターするという計画も立てられた。
(13)JAL側の戦略としては、成田・ホノルル間のチャーター便と組み合わせることで効率のよいパッケージ・ツアーを組みことを念頭においていた。すなわち、この時点では、成田→マジュロ→ホノルル→成田を飛ぶ便と、成田→ホノルル→マジュロ→成田を飛ぶ便を結びつけて、観光客はマジュロに中3日間滞在するプランが計画されていた。
(14)さらにグアム経由の場合、マジュロ着は午後7時であり、またグアム行きの場合はマジュロ発が午前10時のため、日本からマジュロへ来る観光客はアクセスだけで往復4日間を費やすことになる。
(15)現在行われているマジュロ市内一日観光は、市街地にあるアレレ博物館、シャコ貝養殖場、空港近隣のピース・パーク(東太平洋戦没者記念碑)見学、マジュロ郊外のローラ地区(大正時代に建立された聖恩紀念碑およびローラ・ビーチ)見学を周遊するコースが設定されている。しかし、これ以上の見学先を設定するのはきわめて難しい状況である。
(16)国際協力事業団2000『マーシャル諸島共和国ジャルート環礁漁村開発計画予備調査報告書』東京
(17)エコツーリズム推進協議会1999『エコツーリズムの世紀へEntering the Ecotourism Age』、東京:エコツーリズム推進協議会 25頁
(18)これに関連して、マーシャルの世界遺産準備委員会で、筆者は、第二次世界大戦時代の戦争遺構やエヌエタック環礁にある米国核実験跡地に作られた「ルニット・ドーム」を含めた戦争関連遺産群として世界遺産登録への整備を進めることが戦略上望ましい旨を伝えた。
(19)2005年9月10日に筆者によるインタヴュー(於:マーシャル短期大学)から引用。なおピーノは、2003年度JICAの青年招聘事業で来日し、日本における観光産業について研修を受けている。
(20)服部勝人2004『ホスピタリティ学原論』東京:内外出版株式会社125-128
(21)Office of Planning and Statistics. 1999 RMI 1999 Census of Population and Housing Final Report. Majuro..

刊行書籍のご案内

太平洋諸島センター

Copyright © 一般社団法人太平洋協会 All Rights Reserved.