すでに述べたように、下院の議席数(第51条)は、90年憲法の70議席から71 議席と1議席増となり、71議席中46議席が人種別議席 (communal seat)として残されたが、残り25 議席は人種区分のないオープン・シートとなった。人種別議席の内訳は、フィジアン23議席、インディアン19議席、ロトゥマン1議席、その他の一般投票者 (General Voter)が3議席で、フィジアンとインディアンの議席数は4議席だけフィジアンに有利な配分となっているが、これは、現在のフィジー人口に占める人種別人口比にほぼ対応している。
フィジアンの23議席は、人種別議席46議席中のちょうど50%にあたるが、総議席中に占める割合では、23/71 で約32%に低下し、90年憲法が総議席中の過半数、約53%をフィジアンの「指定席」としていたのと比べ、鮮やかな対比をなす。これによって、90年憲法のような下院におけるフィジアンの絶対的優位の恒久化が放棄されたことは明白であり、人種別議席の残存を批判するよりも、不完全にしろこのあきらかな民主的発展の側面こそが注目されるべきであろう。
フィジーの人々にとって、人種別議席から完全なオープン・シートに移行することは余りにも大きな飛躍 (too big a leap) であった。制度面でも、下院議員自身にとっても、このような巨大な飛躍への準備ができているとは思えなかった。それにきわめて現実的な理由として、現職議員がオープン・シートの拡大によって新憲法下の選挙で議席を失うことを恐れた。こうした事情が、人種別議席を残した(*9)。
上院の議席については、90年憲法では全議席(34議席)が人種別(フィジアン24、ロトゥマン1、その他9)で、それぞれ大酋長会議の助言・ロトゥマ島評議会の助言・その他コミュニティーの慎重な判断の助言にもとづき大統領が任命していたが(第55条)、97年憲法では人種別議席配分が廃止されると同時に議席数と任命方式が変更され、全32議席が大酋長会議(14議席)、首相(9議席)、野党党首(8議席)、及びロトゥマ評議会(1議席)の助言にもとづいて大統領が任命することになった(64条1項)。こうして、ここでも国民統合にむけて漸進的な改革が行われた。
90年憲法ではフィジアンに限られていた首相の資格要件(第83条2項)から人種要件がなくなったことで(第98条)、フィジアン以外の民族が首相になる可能性がひらかれた。ただし、もう一つの変更点である「複合民族内閣」の組織が憲法上要請されることになったため、たとえインディアンの首相が誕生してもフィジアンが閣内にその議席数に比例する閣僚ポストを占めることが可能になった。そのため、インディアンがフィジアンを内閣から完全に排除したかたちでフィジーを支配する恐れはなくなった。これはフィジアンの首相のもとでも同様で、この二つの重要な変更が相伴って二大民族間の協調が促進され、国民統合推進への状況が整備された。さらに憲法の制定に至る過程でみられた両民族の協調姿勢は国民統合の実現への期待を示し、人口構成におけるフィジアン対インディアンの人口比の再逆転の可能性の喪失という事実は、フィジアンの将来不安を払拭した。
『CRC報告』で「複合民族(人種)内閣(政府)」(multi-ethnic(multiracial) cabinet(government)) として答申されていた連立政権の要請が(*10)、憲法では「複数政党内閣」(multi-party Cabinet)という表現に変わって採用された。これは、組閣にあたって下 院において一定の議席数を占める全政党の議員のなかから大臣を任命することを首相に義務づけるものである(第99条)。憲法の規定では、大統領が首相の助言にもとづいて、下院議員または上院議員の中からその他の国務大臣を任命するが、その際首相は閣僚が下院の政党構成をできるかぎり公平に反映するように内閣を構成することが求められている。特に下院の全議席の10%以上を占める政党については、原則としてその各政党からその下院議席数に応じた閣僚を任命しなければならない(第99条)。フィジーにおいては、政党が一般にそれぞれ特定の民族(人種)の支持を中心に形成されているため、議席を有する全政党の議員を閣僚に任命することは、必然的に複合民族内閣の形成につながる。
その一方で、政府内における「責任」(accountability)の減少をもたらすことが危惧されている。つまり、複合内閣の成立で「総与党化」現象が生じると政府に対する批判勢力がなくなり、政府の政治責任の追及が曖昧になってしまう恐れがあるからである。こうした懸念にもかかわらず、複合民族内閣制の導入が決められたのは、フィジーにとって「国民統合政府」(government of national unity)の基礎的要因として、なによりも全政党指導者の真の協力が不可欠と考えられたからであり、フィジーの繁栄に向けてすべての民族集団の一致結束こそが求められているのである(*11)。
3.権利章典による国民統合
第4章に23条(第21条~第43条)からなる「権利章典」(Bill of Rights)の章が置か れた。この中で、人身の自由に関する諸権利、表現の自由、信教の自由、投票の秘密、プライバシーの権利、法の下の平等、裁判を受ける権利、教育を受ける権利など、各種の自由権・参政権・社会権・国務請求権に関する諸権利が保障されている。
こうした規定はおよそ現代国家の憲法に一般的に見られるものであるが、フィジーの場合の特徴は、こうした人権を保障した権利章典が公権力を制限するという、近代立憲主義憲法の基本的な考え方を明記している点にある。すなわち、「この章は、(a)中央及び地 方のすべての政府における立法、行政、及び司法部門、並びに(b)あらゆる公職にあって その権限を行使するすべての人々を拘束する。」(第21条)と規定する。
こうして、権利章典の機能を憲法で明らかにし、権利章典による国民統合への試みが、次のように、憲法に具体化されることになった。
1.コンパクトの作成
JPSC勧告は、「フィジアンとロトゥマンの利益」を規定した90年憲法第3章の削除 と、この章にかわる「理解のためのコンパクト」(Compact of Understanding)の作成を求めた。これは、フィジアンの権利を一部制限し、フィジーのすべての個人・コミュニティー・集団の個々の権利を保障することで、平等主義のいっそうの推進による民族間の融和の促進を意図したものである。
その結果、97年憲法では第2章に「コンパクト(Compact)」(協定)として、2か条の 条文(第6条・第7条)が設けられた。その内容は政府の行為準則に関わるもので、個人・共同体及び集団の権利の尊重、フィジアンの慣習に基づく土地所有権の維持、信教の自由、言語・文化・伝統を保持する権利、政党結成・政治参加の権利、すべてのコミュニティーの利益への配慮、すべてのコミュニティー間での政治権力及び経済的・商業的権力の公正な共有、フィジアンの利益の至高性などの諸原則が政府の遵守すべき原則として規定されている(第6条)。
ただし、以上の諸原則は、他の憲法規定またはこの憲法のもとで作られた法律の対象となっている範囲を除いては、裁判においては適用されないが、解釈上関連性が認められる場合には、この諸原則が考慮されなければならない(第7条)。
このようにコンパクトは、各コミュニティーの権利保護を政府の行為準則としながらも、一方でフィジアンの利益を他のコミュニティーの利益に優位する至高のものとするという矛盾をも含んでいる。しかし、これは法的拘束力をもたないという見方もあり(ラツー・イノケ・クブアボラ (Ratu Inoke Kubuabola) 情報大臣)、そのためフィジアンの利益を確実に保障する方法はまだ確立されているとは言い難く、いずれフィジアンの間に不安と不安定をうみ出すだろうとの懸念の声もある(*12)。
2.社会正義と積極的格差是正措置
憲法第5章は、「社会正義」の表題の下に10項からなる「社会正義と積極的格差是正措 置」(social justice and affirmative action)の1条(第44条)を置く。同条によると、国会は、不利な地位に置かれているすべての集団に属する人々が、教育と訓練、土地と住宅、商業活動、及び国家サービスに実効的にアクセスできるようにするためのプログラムを定めた法律の作成を義務付けられている。これによって、非インディアンの生活向上のための国家による積極的措置の実施が約束され、国民統合への前提条件の整備が図られることになった。
3.人権委員会の設置
議長たるオンブズマン、裁判官資格を有する者、及びその他1名の計3名で構成される人権委員会(Human Rights Commission)が設置された。この委員会の主な機能は、国民 に対し権利章典の本質と内容について教育し、人権に関する事柄について政府に勧告するなど、人権問題について国民並びに政府を啓蒙し、人権意識の向上と人権保障の強化を目的としている(第42条)。これにより、国民統合の必要性を国民意識の面から推進することが意図された。
4.集団の権利
第13章に、2か条からなる「集団の権利」(Group Rights)の章が設けられた。これは、インディアン以外の民族集団の権利保護に関するもので、フィジアン、並びに少数民族であるロトゥマンとバナバンの権利・土地所有などに関する8つの法律については、通常の法律改正よりも厳重な改正要件が必要とされ、これら3つの民族集団の権利が憲法で強く保障されることになった(第185条)。また、慣習法・慣習上の権利に関わる立法を国 会が行う際には、国会はフィジアンとロトゥマンの慣習・伝統・慣行・価値・及び希望を考慮することが義務づけられている(第186条)。こうして、国民統合によっても非イン ディアンの権利等が侵害されるおそれのないことを明らかにし、統合にむけての障害のひとつが除かれることになった。
4.その他の改革
以上のほかにも、選挙制度改革(第50条・第54条)、強制投票の導入(第56条)、司法権の独立の宣言(第118条)、「憲法上の公職に関する委員会」の設置(第142条・第143 条・第146条)、大統領・副大統領・国務大臣・国会議員を初めとする公職にある者の行 為規範の制定(第156条)、定期的な憲法見直し条項の削除(第190条)などの各種の憲法改革が行われ、国家統合・国民統合にむけての条件整備が広範囲にわたって企図されている。
三.結びにかえて…1997年憲法への反応と展望
フィジーで発行されている月刊誌「リビュー」(1997年7月号)は、憲法の草案となった『JPSCレポート』について、「完全なコミュナリズム(communalism)からの訣別を期 待する人々はいささか落胆するかもしれないが、このレポートは正しい方向への大きな一歩を踏み出したものであり、フィジーを民主主義と経済成長の道へ戻すことを狙った改革である」、と評価する(*13)。
「アイランド・ビジネス」誌も、「真の民主主義という観点からは、新憲法は十分に民主的とはいえないが、人口の90%が国王と貴族に従属しているトンガや、ほとんどの平民が議会からしめ出されているサモアよりは間違いなく民主的である」(97年7月号)とそ の政治発展に一定の積極的評価を下し、「新憲法でフィジーは良くなり、経済発展の期待が期待される」(同8月号)と見出しに掲げ、新しい憲法のもたらす経済発展への効果に期待する(*14)。
一方、「パシフィック・アイランズ」誌は、「憲法を越えて」という表題で、「憲法は、目的達成のための手段でしかなく、フィジーが本当に人種差別社会から自由・民主主義社会に移行するためには、人々の心からの約束が必要であり、それなくしては憲法は一片の紙切れに過ぎない。これまでのところ人種的関心を乗り越える国民統合(national unity)のしるしはほとんど見えず、フィジーはまだ安心とは言えない。」(97年9月号)という趣旨の社説を掲載し、新憲法には消極的評価を与えるにとどまっている(*15)。
このように、新憲法に対する見方はけっして一様ではないが、筆者が実際に何人かのフィジー人から聞いた反応は、おおむね積極的な評価であり、新憲法のもとでの民主的発展と経済発展を期待する声が支配的であるように思われる。
しかし、「パシフィック・アイランズ」誌が厳しく指摘するように、この憲法がその立法目的を達することができるか否か、すなわちいずれ近い将来の「国民統合」の成否は、一に「フィジー諸島国民」としてのアイデンティティーの形成にかかっている。その意味で、これからのフィジーの国民統合問題は、憲法改革から国民の意識改革の問題へと移行したといえよう。そして、その手段としてもまた、憲法は重要な役目を期待されることになると思われる。
(注)
(*1). Yash Ghai,“ The Making of Constitutions in the South Pacific: An Overview,”Pacific Perspective Rethinking Pacific Constitutions ,(Vol.13, No.1. 1984),p.2.
(*2). これについては、より詳細な報告が、次の論文中の拙稿(=「太平洋島嶼諸国の独立と憲法」及び「フィジー憲法にみる国民国家形成・・・・・・・・憲法による国民形成と統合の過程」)の中で行われている。 小林泉/東 裕「強いられた国民国家」、佐藤幸男編『太平洋世界叢書 1 世界史の中の太平洋』(国際書院、1998年)所収、pp.77-96。
(*3). 東 裕「フィジー共和国憲法にみる『伝統』と『近代化』の相剋」(『法政論叢』 第33巻、日本法政学会)239頁、1997年。
(*4). 同上、243頁。「近い将来、憲法の人種差別条項が廃止される可能性が考えられる。とするならば、差別条項の存在が、差別条項の必要のない状態を作ったということになる。」として、90年憲法の政治・社会的効果とその歴史的意義を評価する。
(*5). クロコーム教授は、「フィジアンは、国防軍の大多数を占め、第二次大戦やPKO に参加するなど、国防に貢献してきた。そのため、フィジアンは、政治に関しては神から与えられた至高の地位を占める権利があると固く信じてきた」(Ron Crocombe,The South Pacific (University of the South Pacific,5th.ed.,1989), p.153)、と指摘する。 一方、インディアンは「英国のためにもフィジーのためにも血を流すつもりはなく、大戦の最中にストライキを起こし、その上白人兵士と平等の賃金を要求し、受け入れられないと軍隊を離れて村に帰った。インド系住民と同じく、白人と平等の扱いを受けていなかったフィジー系住民からは完全に相容れることのない民族と判断された」。(橋本和也「『政府』への模索・・・・『外来王』の変遷・・・・」、塩田光喜編『海洋性島嶼国家の原像と変貌』(アジア経済研究所,1997年)所収、132頁)。
(*6). ランブカ首相は、独立以来の3つの憲法について次のように語った。「1997年憲法は、独立国家としての我々の歴史ではじめてフィジーの人々(people of Fiji)が自らに与えた憲法である。1990年憲法は、フィジーの半分のコミュニティーだけによって決められ、インディアンはそこに含まれていなかった。1970年憲法は、フィジーの代表者たちが参加したとはいえ、実際はイギリスによって決められたものであった。」(Pacific Islands Monthly, (September, 1997)p.19)。
(*7).『CRC報告』、pp.64-67参照。これは1996年9月に出された「憲法再検討委員会」 (Fiji Constitution Review Commission)の報告書である。『リーブス報告』、『FC RC報告』とも呼ばれる。目次19ページ、本文791 ページ、写真15ページで、825ページに及ぶ大冊である。報告の正式名称は、『フィジー諸島:統合された未来にむけて:フィジー憲法再検討委員会報告1996年』(‘The Fiji Islands:Towards A United Future’・・・・Report of the Fiji Constitution Review Comission, 1996.)で、ポール・リーブス(Sir Paul Reeves)[マオリ系ニュージーランド人]、トマシ・バカトラ(Tomasi Rayalu Vakatora)[フィジアン]、ブリジ・ラル(Brij Vilash Lal)[インディアン]の3人 の委員の執筆になる。内容は、697項目の改正提案ですべてに提案理由を付す。これが「 両院合同特別委員会」(Joint Parliamentary Select Committee)に提出され、最終的に697項目のうち577項目が採択され、新憲法に規定されることになった。残りの項目については、修正40項目、拒否または削除が77項目であった。本報告の要点については、東 裕「フィジーの憲法改正動向について・・・・・・『憲法再検討委員会報告』を中心に」、『ミクロネシア』通巻第102号、(社)日本ミクロネシア協会、1997年、34-35頁、参照。
(*8).97年憲法の構造といくつかの特徴的な規定については、東 裕「フィジー新憲法の 成立と構造」(『ミクロネシア』通巻第105号、(社)日本ミクロネシア協会、1997年)20-33頁、参照。
(*9).The Review, July 1997, p.13. 「憲法再検討委員会(リーブス委員会)」(Constitution Review Commission:CRC)の助言者を務めたジョン・アプティッド(Jon Apted)氏の指摘。
(*10). CRCの見解では、すべての民族コミュニティー間での行政権の共有をすすめるこ とがフィジーの憲法問題を解決するための唯一の解決策であり、そのためには複合民族政府を組織し、人種の調和・国民統合・全民族集団の経済的社会的進展を図ることが必要だと考えられていた(『CRC報告』、p.18)。
(*11).The Review, July 1997, p.13.
(*12).Ibid.,p.16.
(*13).Ibid., p.12. 東 裕「フィジー新憲法(1997年)の若干の特徴について」(『ミ クロネシア』通巻第104号、(社)日本ミクロネシア協会、1997 年)43-44頁、参照。
(*14).Islands Business, July 1997, p.6., ibid., August 1997, p.43.
(*15).Pacific Islands, September 1997, p.6.(以上)