クーデタ以降、バイニマラマと軍の動向に批判的であった大首長会議議長のラトゥ・ボキニもあまりの事態の進展の唐突さに戸惑いを隠さなかった(59)。伝統的首長層から構成される機関として植民地時代に形成されて以降、1987年、2000年のクーデタにおいてでさえ、大首長会議が今回のクーデタのように軽視されることはなかった。軍は、先住系フィジー人の伝統の保護者と目されていた大首長会議の権威すら批判の俎上に載せていったのである。
ところで、クーデタの展開の記述・分析を目的のひとつとする本稿で、理念的な側面だけに光を当てて整理するのは片手落ちであろう。たとえば、軍の意向に背く動きに対して、暴力的な手段を辞さず牽制している側面があることも見逃すことができない。事実、ガラセ政権に代表されるようなフィジー人民族主義に対して融和的な政治的、社会的秩序のあり方に対して批判的である軍のスタンスは、別言すると、民族主義的なフィジー人の層から反発を招くことは予期しやすい。軍による、たびかさなる緊急事態宣言の引き延ばしや、人権侵害に類する活動の背景には、軍への反発が先住系フィジー人のあいだに民族主義的気運の高まりを巻き起こし、ひいては暴動につながりかねないことへの憂慮が存在していたと思われる。
たとえば、軍による反臨時政権的な発言を取り締まる活動は、クリーンアップ・キャンペーン開始直後から始まっていた。軍や臨時内閣に批判的な、SDLの議員呼び出しが行われていたことはすでに指摘している。それ以外にも、より深刻な人権問題としては、24日深夜におきた人権活動家に対する暴力事件がある。彼ら人権活動家の計6人はナンブアの兵営に連行され、軍による手ひどい扱いを受けていた(60)。臨時政府に任命されていた各種COEの強制的な配置替えに批判的だった、フィジーサトウキビ生産者会議(Fiji Sugarcane Growers Council)のジャガナス・サミ(Jagannath Sami)も同様な目に遭っている(61)
また、軍の高邁な理念の影で、クリーンアップ・キャンペーンのいびつな側面をしめす事態として、年を越した2007年1月2日に行われたテレビ放送が挙げられる。軍は政権与党であったSDLが総選挙のなかで選挙違反していた証拠として、ビデオテープを公表したのだ。新たなフィジーの夜明けを告げるというテープの収録内容は、SDLの選挙参謀を務めていたテヴィタ・ナイソロ(Tevita Naisoro)とピーター・フォスター(Peter Foster)がホテルの一室で交わした会話の隠し撮りであった。テープの中で、ナイソロは警察ぐるみで投票箱を開封し、箱のなかにSDLの票を加えたと述べている(62)。しかし、そもそもピーター・フォスターは警察に勾留されていた国際的に著名な詐欺師であるため、この証拠をどこまで信用できるのは疑わしい(63)。1月4日の報道によると、追放された選挙管理委員のセメサ・カラヴァキは、警察官や選挙管理委員が投票所で監視していた以上、選挙違反ができたはずはないと主張している。また、同日フィジー法協会の議長が述べているように、選挙違反の確たる証拠があるなら適切な機関にそれを提出すれば充分であるし、そもそも軍の提示したテープにどこまで挙証能力があるのか疑わしい(64)。また、ガラセ政権の汚職がクリーンアップ・キャンペーンの前提であったのだから、事後的に盗撮して汚職の証拠集めを行っている点も論理的に矛盾していよう。
ビデオ公表以上に問題含みなのは、臨時政権が司法制度にも介入しはじめたことである。1月3日、首席裁判官ダニエル・ファティアキ(Daniel Fatiaki)は、突如、無期限の停職処分にされた(65)。司法に対する捜査、具体的には2000年クーデタ以降にみられた司法活動への疑惑、引き続いておきた司法の政治化、裁判官任命に関する疑惑など司法当局の腐敗を調査することが目的とされた(66)。
このように、バイニマラマは、非常に速いペースで既存の政治秩序の変革を断行していた一方で、臨時政権を保持するため、強権的な手段で反対派の活動を封じ込めようとしていた。政治腐敗を一掃するというクリーンアップ・キャンペーンの意図は明確ながらも、この非常に高い目標がはたして既得権益層の解体という手段で達成可能かどうか充分に説得的とは言い難い。また、バイニマラマの大統領就任は、臨時政権が事実上、軍事政権であることも意味するので、国際社会への復帰に対する障碍となる。以上の要因は、フィジーの多くの人、ことにクーデタの結果周辺化された人々の間に、先行きに関する不安を巻き起こしたことは想像に難くない。したがって、バイニマラマがラトゥ・イロイロに大統領職の返還を公表したとき、彼に対する批判者も含めてこの動きは歓迎された。ただし、現実には、事態をより複雑にすることになったのである。この点の詳細については次号で論じる。
4 最後に
以上、本稿では、2006年12月のクーデタの初期段階、すなわちバイニマラマとガラセが、2000年クーデタの後始末をめぐって対立し、バイニマラマがクリーンアップ・キャンペーンというクーデタを決行し、大統領代理に就任した後、行政権を大統領ラトゥ・イロイロに返還する1月4日までを記述・分析した。
これまでの記述・分析からあきらかになったように、この時期は、臨時政権としての先行きが不透明で、クーデタを通じた政権交代も成功するかどうか先行きのあやしい時期であったといえよう。また、ガラセによるオーストラリア軍介入の要請や12月9日の英連邦から離脱など国際社会との関わりは否応なく影を投げかけているが、国際社会へいかに対応するかという問題は前景化してきておらず、むしろ民主的な国家への復帰に向けて、海外の諸政府と慎重な交渉を重ねる必要があらわれる前の段階であった。つまり、国内政治の安定化をはかると同時に諸外国と交渉する主体を立ち上げる必要性がむしろ求められた時期であった。バイニマラマは軍の力を背景に国内を掌握したとはいえ、別の政治秩序に移行したと言い切るためには、まだ不安要素を抱えていた。たとえば、追放されたとはいえガラセは政権への復帰に期待をかけていた。それが大首長会議の決議を経て、たとえ法律的な根拠があやしいにせよ、国内を統括する政府の必要性が、フィジー国内のコンセンサスとなりつつあった時期であるといえる。
臨時政府はまだ生まれたばかりであるものの、彼らが望む方向性は明確に示していた。たとえば、フィジー史上類例がないほどの、政治的、社会的な既得権益層の破壊、先住系フィジー人の民族主義的動きを牽制して多民族主義を標榜する点などは、臨時政権が向かいたいと考えている行き先を指し示している。バイニマラマの掲げる理念(多民族主義の根付いたフィジー、政権腐敗の一層)それ自体は、高邁なものといえよう。バイニマラマの問題提起は、民族主義者層からの支持を基盤とし、2000年クーデタの関与者の処罰に対しても寛容な態度を示していたガラセ政権の抱えていた本質的問題点をえぐる指摘でもあったのだ。またであるがゆえに、ガラセ政権の諸政策をあからさまな民族差別とみて、それらの断行を苦々しく思っていた層から一定の支持が得られたと思われる。
その一方で、臨時政府に対する反対派の動きは、まだ萌芽的段階に留まっていた。大首長会議は臨時政府の意向に必ずしも従わなかったものの充分な反対勢力とはなり得なかった。むしろ、バイニマラマの掲げる理念の前では、フィジーの伝統を体現する組織として敬意の対象とされていた大首長会議は、政界の汚職と無関係な機関ではないとして、遠慮なく扱われるに過ぎなかった。また、臨時政権の合法性を問う法廷闘争の試みは、まだはじまったばかりであった。そして、臨時政権が提起する新たなフィジーへむけたクリーンアップ・キャンペーンの全体像と現実の姿があきらかになるのは、次回の原稿で記述・分析を試みるように、まだ先のことであった。
(1) 雑誌の特集号では、Pacific Viewpoint, 1989, vol.30 number 2.やThe Contemporary Pacific, 1990 vol.2 number 1. がある。ビブリオとしては、Ewin, Rory, 1992 Colour, Class and Custom: The Literature of the 1987 Fiji Coup. Canberra : Political and Social Change, Research School of Pacific Studies, Australian National Universityがある。
(2) Firth, S. ‘The Contemporary History of Fiji’ The Journal of Pacific History 24: 242-246。丹羽典生 2005「フィジー――フィジー人とインド人の共存」綾部恒雄(監修)前川啓治、棚橋訓(編)『講座ファースト・ピープルズ――世界先住民の現在 第9巻 オセアニア』明石書店。
(3) 一般には、フランク・バイニマラマ(Frank Bainimarama)と呼ばれることも多い。
(4) cf. Ratuva, Steven 2007 ‘The Pre-election ‘Cold War’: The Role of the Fiji Military During the 2006 Election’, in Fraenkel, Jon and Stewart Firth (eds.) From Election to Coup in Fiji: The 2006 Campaign and its Aftermath. Suva: IPS Publications, University of the South Pacific. また、Lal Brij 2007 ‘’Anxiety, Uncertainty, and Fear in Our Land’: Fiji’s Road to Military Coup, 2006’, The Round Table 96: 135-153.
(5) cf. Mosmi, Bhim 2007 ‘The impact of Promotion of Reconciliation, Tolerance and Unity Bill on the 2006 Election’, in Fraenkel, Jon and Stewart Firth (eds.) From Election to Coup in Fiji: The 2006 Campaign and its Aftermath. Suva: IPS Publications, University of the South Pacific
(6) たとえば、The Fiji Times, October 27, 2006: 7におけるスティーヴン・ラトゥヴァの記事。同内容で同じ日付で、彼のブログにもアップされている[Ratuva, Steven 2006 ‘Bullets and Bulletins: The Media and Coup Rumours’ ]。
(7) 和解法案の他には、ゴリンゴリ法案(Qoliqoli Bill)と土地法廷法案(Land Tribunal Bill)である。
(8) 取り調べは、司令官の政府に対する批判的な発言が反逆罪に当たるのではないかという嫌疑であった。
(9) 警察と軍では分担する治安維持の境界をめぐる衝突があり、そのことが軍によるヒューズの辞任要求へとつながっていった。
(10) この部門は、警察活動の強化を目的に設立されたもの。警察の同部門の設立は、結果として軍の勢力をそぐもことになるとして、軍の側で問題視されることがあった。
(11) NLTBとは1940年に設置された先住民所有に当たる土地を管理する組織である。フィジーにおける土地の83%以上は先住民所有の土地に当たっている。
(12) 詳細はガラセ首相のウェリントン会議に関する説明文を参照。Qarase “Address to the Nation: Government Discussions with Republic of Fiji Military Forces”, November 30. 同内容は The Fiji Times December 1, 2006: extra 1, 2.にも掲載。要約は、The Fiji Times, December 2, 2006: 7.にもある。人々からの要求が高かったためか、ほぼ同内容の司令官宛の手紙も、The Fiji Times, December 3, 2006: 19.に掲載されている。さらに、フィジー語でも再掲されている。The Fiji Times, December 3, 2006: 20.
(13) 軍の要求では、②「見合わせ」ではなく取り下げ、③警察の取り調べをただちに取り下げること、④警察長官アンドリュー・ヒューズの即時の契約打ち切りと、より手厳しいものであった[Lal, Brij 2007 ‘Anxiety, Uncertainty, and Fear in Our Land: Fiji’’s Road to Military Coup, 2006’, The Round Table 96: 135-153.]。
(14) The Fiji Times, December 1, 2006: 6
(15) 実際のデッドラインは12月1日であったが、当日スクナ・ボールというラグビーの試合があったため、クリーンアップの開始時期をずらしている[Fijivillage News, 2006 December 1 ‘Army Commander will not extend deadline given to PM’]。
(16) ガラセ自身は、電話がつながることを根拠に、身を隠してはいないと主張している[The Sunday Times, December 3, 2006: 3]。ガラセの隠れているかのような対応は、おそらく、彼を人質にする計画があったという流言の影響もあったと思われる[The Sunday Times, December 3, 2006: 1]。
(17) The Sunday Times, December 3, 2006: 3
(18) The Fiji Times, December 4, 2006: 3
(19) 注10参照のこと。
(20) ピーター・ンリティ(Pita Driti)は、クリーンアップ・キャンペーン終了後、武器は返還されると述べた[Fijivillage News, December 4 ‘Army to Return Police Arms After Cleanup Campaign’]。
(21) Fijivillage News, December 4 ‘Military Sets Up More Checkpoints’
(22) 同地方の最高首長の一人ラトゥ・イノケ・タキヴェイカタ(Ratu Inoke Takiveikata)は、2000年11月に、クーデタの余波で起きた軍の一部による反乱事件に関与した廉で終身刑に処されている。また、彼はガラセを党首とする政党SDL(統一フィジー党:Soqosoqo Duavata ni Lewenivanua)の結成メンバーでもあったことがガラセの同議会出席の背景にあったと推測できる。また、同地方議会は、ガラセ支持を表明している[The Fiji Times, December 5, 2006: 3]。
(23) The Fiji Times, December 4, 2006: 23
(24) 注39を参照のこと。
(25) Qarase, Laisenia 2006 December 5, ‘Address to the Nation’. cf. Fraenkel, Jon 2007 ‘The Fiji coup of December 2006- who, what, where and why?’, in Fraenkel, Jon and Stewart Firth (eds.) From Election to Coup in Fiji: The 2006 Campaign and its Aftermath. Suva: IPS Publications, University of the South Pacific 421.
(26) この日の朝、ガラセはオーストラリア軍に救援を求めていたという。後日の報道によると、オーストラリアの外相アレキサンダー・ダウナー(Alexander Downer)は、ガラセ首相から、オーストラリア軍を派遣するよう3度要請があったと明らかにしている。一度目はクーデタの一週間前、二度目は12月4日、そして三度目はこの日、12月5日であったという[Fijivillage News, December 23 ‘Qarase Enquired for Foreign Assistance to Stop Army Takeover’]。
(27) この原理は、緊急時に際して、政府が責務を履行し得ないならば、行政部が介入する権限を認めるものである[Lal Brij 2007 ‘Anxiety, Uncertainty, and Fear in Our Land’: Fiji’s Road to Military Coup, 2006’, The Round Table 96: 135-153.]
(28) Bainimarama, Voreqe 2006 December 5 ‘Voreqe Bainimarama’s Press Statement’
(29)歴史の皮肉として、同日、エンペラー・ゴールドマイン(Emperor Goldmine)がヴァトゥコウラ(Vatukoula)鉱山での操業停止を発表している。
(30) Fijivillage News, December 7 ‘Caretaker PM Advised the Appointment of Qarase in 2000’. また、チョナの経歴の詳細については、[The Fiji Times, December 11, 2006: 2; The Fiji Times, December 17, 2006: 8, 9]を参照のこと。
(31) Bainimarama, Voreqe 2006 December 5 ‘Voreqe Bainimarama’s Press Statement’
(32) 12月20日の報道によると、副大統領自身、後に最高首長会議に辞表を提出している[Fijilive, December 20 ‘Ratu Joni hands in resignation’]。
(33) The Fiji Times, December 9, 2006: 3
(34) いわゆるagricultural scamと呼ばれているもの。選挙期間中に農作業の用具などが、支援という名目で配布された。同件に関して上級公務員に有罪が宣告されている。
(35) cf. The Fiji Times, December 14, 2006: 5。17日の報道では、400人の応募者があったとされている[The Fiji Times, December 17, 2006: 2]。
(36) The Fiji Times, December 8, 2006: 1
(37) 大首長会議議長ラトゥ・オヴィニ・ボキニ(Ratu Ovini Bokini)は、アンディ・リティア・ギオニンバラヴィの馘首に反対している。バイニマラマは、アンディ・リティアの後任として、もともとフィジー人担当局に勤務していた彼の兄であるラトゥ・メリ・バイニマラマ(Ratu Meli Bainimara)を指名した[The Fiji Times, December 15, 2006: 3]しかし、彼女は軍の意向を無視して、15日に職場に復帰している。彼女の任命をめぐる混乱はその後泥仕合の様相を帯びていき、彼女は22日のラジオ放送の場でバイニマラマから政府基金の悪用を申し立てられるが、翌日、彼女は軍の申し立てを否定する記者会見を開いている[The Fiji Times, December 24, 2006: 3]。さらにはフィジー・タイムズに英語とフィジー語の意見広告を掲載して、自己の潔白を主張した[The Fiji Times, December 27, 2006: 15]。
(38) The Fiji Times, December 14, 2006: 1, The Fiji Times, December 15, 2006: 1, 2.
(39) 1953年に結成された労働組合。この組織のもとに多くの組合が参集している。近年では労働党と距離の取り方を原因として、組合内部に分裂を生み出しており、労働党に反発する組合が別の組合団体The Fiji Council of Trade Unionを形成している。
(40) 厳密には、多党内閣の条項を通じて、労働党の議員もガラセ内閣に参加しているので、労働党も与党の一部であった。ただし、労働党党首チョードリー自身は閣僚として参加しないで、政権との距離を維持し、クーデタ前に提出された政府予算案にも批判的なスタンスを貫いていた。
(41) Fijivillage News, December 8 ‘Ratu Epeli mediates between Military/GCC’.ただし、ラトゥ・ボキニはラトゥ・エペリ・ガニラウには何の要請もしていないと即座に声明を出している[The Fiji Times, December 9, 2006: 2]。そのため、彼のクーデタへの事前関与は、この段階からはやくも噂になっていた。
(42) The Fiji Times, December 11, 2006: 1
(43) The Fiji Times, December 11, 2006: 1
(44) The Fiji Times, December 15, 2006: 3
(45) Fijivillage News, December 9 ‘Fiji Suspended from Commonwealth’
(46) The Fiji Times, December 16, 2006: 7。具体的には、①軍は行政権を大統領に戻す、②バイニマラマとセニラガカリは辞任する、③ガラセは自主的に辞任する、④大統領指名で71人の選出された議員から首相を指名し、臨時内閣を形成する、⑤軍と臨時内閣の協議のもと恩赦条項をふくめた合意に達するよう調整する。同様な考え方を提示した者には、非営利民間団体CCF(Citizens’ Constitutional Forum)のアクイラ・ヤンバキ(Akuila Yabaki)がいた[Fiji Sun, December 23, ‘Polls in 15 months, says CCF’]。
(47) The Fiji Times, December 18, 2006: 1
(48) 実際には、クンブナの最高首長位は現在空位である。彼女は先のクンブナの最高首長の子供にあたるので、首長継承者として最有力候補の一人である。
(49) トヴァタのラトゥ・ナインガマ・ラランバラヴは参加を辞退している。
(50) The Fiji Times, December 21, 2006: 1
(51) The Fiji Times, December 19, 2006: 1
(52) たとえばトヴァタは、ブレンバサガ、クンブナのようにガラセ政権側に肩入れせず、軍がフィジーにおける行政権を掌握していると主張していた。こうした大首長会議分裂の背景には、大首長会議議員の一人であるラトゥ・テヴィタ・ウルイラケンバ(Ratu Tevita Uluilakeba)――トヴァタに属するラウ諸島出身――の意見があったとされる。彼は軍の上官で、故ラトゥ・マラ大統領の子息でもある[The Fiji Times, December 22, 2006: 1, 2]。
(53)前日の報道では、若干内容がことなっていた。大統領ラトゥ・イロイロに対する助言を可能とする定員10人の諮問機関を設置すること。内訳は軍、大首長会議、SDL、労働党、統一人民党から各2人で構成されること。そして諮問機関の勧告に従い、首相、臨時挙国一致政府は、追放された議員から選出すること。同議会のもと、2年後に選挙を行うこと。(軍の意向に配慮してか、臨時内閣の閣僚は次期の選挙に立候補しないことの言及されていた。)ガラセと政府の成員に保障する協定をつくるよう勧告すること。腐敗の申し立てに対する審議委員会を結成することである[The Fiji Times, December 22, 2006: 2]。
(54) The Fiji Times, December 23, 2006: 1, 2
(55) The Fiji Times, December 24, 2006: 1, 3
(56) 国民連盟党の党首ガニラウも、軍と歩調を合わせるかのように、フィジーを軍が支配している以上、合法性を話し合うのではなく、先に進む必要があるとコメントしている[The Fiji Times, December 22, 2006: 3]。
(57) The Fiji Times, December 23, 2006: 1; The Fiji Times, December 24, 2006: 3
(58) The Fiji Times, December 28, 2006: 1
(59) 注37も参照のこと。
(60) Fijivillage News, December 8 ‘Democracy activists allege ill treatment by Army’
(61) The Fiji Times, January 3, 2007: 3
(62) The Fiji Times, January 3, 2007: 1, 2
(63) 映像は選挙違反の現場を隠し撮りしていたのではなく、クーデタ後に軍がフォスターに協力を要請して作成されたものである。文中のような発言を引き出してはいるものの、情報を入手した設定を含めて、情報の信憑性については留保が必要であると思われる。また、後に、フォスターは軍への協力と引き替えに、軍に指名された警察長官に自分に対する告発を取り下げるよう依頼していたと報道されてもいる [The Fiji Times, January 4, 2007: 1, 4]。その後フィジーからの逃亡を果たした彼は、フィジー軍の手助けで国外逃亡が可能となったと証言している[Fijilive, January 24 ‘Military denies helping Foster escape’]。そもそも、軍はなぜこうした疑わしい履歴の人物に協力を要請したのか、不明である。
(64) The Fiji Times, January 4, 2007: 3、また、Fijilive, 2007 January 3 ‘Give evidence to cops: Law Society’も参照のこと。軍は、この後、さらに汚職の証拠となるテープを公表していくと述べているが[Fijilive, 2007 January 3 ‘Army to release more Foster videos’]、本稿執筆の時点では何も提示されていない。
(65) 同時に同じ理由で、主席治安判事ナオミ・ロマイヴィティ(Naomi Lamaiviti)も休職扱いにされた。また、この時点で給与は支払われていたが、ファティアキはのちに大統領令のもと公式に停職扱いにされている[Fijilive, 2007 February 9 ‘CJ informed of suspenion’]。
(66) The Fiji Times, January 4, 2007: 1,2