一般社団法人太平洋協会のウェブサイトです

2001年フィジー総選挙の分析

  • HOME »
  • 2001年フィジー総選挙の分析

2001年フィジー総選挙の分析
~民意はどこにあったのか~

社団法人 太平洋諸島地域研究所
主任研究員 小 川 和 美注1

はじめに

 去る8月25日から9月1日まで、フィジーにおいて、昨年5月のスペイト事件以来はじめての総選挙が行われた。今回の総選挙はフィジー国民にとって、今後フィジーをどのような国にするのかを方向づける極めて重要な選挙であった。と同時に、事件で政権を追われたチョードリー前首相率いるフィジー労働党(FLP)注2や、スペイト氏自身も立候補した排外主義的な新党保守同盟党(MV)がどの程度の支持を集めるのか、すなわち今フィジー国民の民意はどこにあるのかがはっきりと示されるという点で、国際社会にとっても注目すべき選挙であった。
 こうした中で9月3日から行われた開票の結果は、ガラセ暫定首相が新たに結成した統一フィジー党(SDL)が僅差で第一党の座を獲得し、これを受けてイロイロ大統領がガラセ氏に組閣の命を下すという展開を見せた。ガラセ新政権は、組閣にあたって憲法で要請されている労働党の政権参加注3を拒み、現在これを新たな火種としながら、またフィジー系優位の新憲法制定を視野に入れつつフィジーの舵取りを行っている。こうしたガラセ新政権の政治姿勢がフィジーの今後を如何なる方向へと導くのかは依然として定かではない。しかし結果としてこうした政権を成立させた国民の意思はどこにあったのかを分析することは、フィジーの今後を占う上で不可欠である。

 本稿では、今回の選挙結果を振り返りながら、フィジー国民の投票行動を検討し、今フィジー国民が何を求めているのかを探った上で、現在のフィジーの状況についての筆者なりの見解を述べてみたい。

1.選挙前の状況

 ではまず選挙結果を語る前に、選挙前の状況について簡単にまとめてみたい。今回の総選挙は多くの政党が乱立し注4、特にフィジー系の間でこれまで以上に小党乱立の分裂選挙となった。
まずインド系では、1999年選挙注5で全議席を失う歴史的敗北を喫した国民連合党(NFP)が、伝統的支持基盤であるインド系富裕層を核として、更なる混乱を恐れる穏健層の支持奪回を図った。しかし選挙直前での党首辞任をはじめとして指導部に人材を得ず、ある程度の巻き返しはできてもかつての党勢を回復することは難しいだろうと予想されていた。
 むしろ台風の目になると思われていたのは、労働党内のフィジー系リーダー格だったバンバ前副首相が、チョードリー前首相と決別して新たに結成した新労働統一党(NLUP)である。バンバ氏は、労働党が民族政党ではなく多民族階級政党であるというイメージを打ち出す上で、同党にとって貴重な存在であった。しかしスペイト事件以後の混乱の中で、バンバ氏はチョードリー氏と袂を分かつことを決断、自らが中心となってNLUPを結成した。こうした事態は、当初インド系も含めて労働党支持層を分裂させ、労働党の力を殺ぐ可能性があると思われた。実際には、新党結成の際にバンバ派に与し、労働党を離れた実力者は予想よりも遥かに少なく、いささか拍子抜けの感は拭えなかったものの、少なくともこの新事態は1999年選挙で労働党が単独過半数を得る大きなカギを握ったフィジー系の労働党支持層・許容層に動揺を与えることになるだろうと思われた。そしてまたインド系の票をNLUPがどう動かすかは、選挙の帰趨を占う上で無視できない変数として浮上してきていた。
 一方フィジー系では、これまで以上に様々な小党派が乱立する状態となった。90年代に酋長層の肝いりでフィジー系大同団結のシンボルとして設立されたフィジー人党(SVT)は、先の1999年選挙での敗北以降急速に求心力を失っていった。その一方で前回議席を伸ばしたフィジー合同党(FAP)やキリスト教民主同盟(VLV)、国家統一党(PANU)も、チョードリー政権時代以来、指導力不足を露呈したり分裂したりと勢いを失っていた。また民族主義的フィジー系国民の不満のはけ口として長い間機能していた国粋主義党(NVTLP)も指導者ブタンドロカ氏の死去以来弱体化していた。
 こうして本命不在の分裂状況の中、ガラセ暫定首相は全国民の結集を求めて新党SDLを結成、同党の旗の下にフィジーの今後を切り開こうと呼びかけた。行政府のトップであるガラセ氏の新党はかなりの支持を集めるだろうと思われたが、反面昨年の事件後に首相に指名されるまで政界とは無縁の経済人だったガラセ氏の選挙手腕は未知数であり、また他政党からの批判は手厳しかった。すでに「Chiefly Sponsored」として全フィジー系の結集を目指したかつての政権党SVTが瓦解した過程で露呈した如く、フィジー系は90年代中盤以降、政治集団が地域化する傾向にあり、果たしてSDLがどの程度の票をまとめきるかはまったく未知数であった。

 そしてもう一つ登場したのがスペイト事件支持派で結成した保守同盟党(MV)である。スペイト氏自身も身柄拘束中の身でありながら立候補を表明、これが有効か否かで揉める局面もあったが結局立候補は受け容れられ、MVは同氏をシンボルとしながら民族主義的志向のあるフィジー系への浸透を図った。MVはNVTLPと主張的には近いながらも「より旬の」民族主義政党として支持を広げた。同党はフィジー系の過半数確保を目標に掲げて選挙戦に臨んでおり、このMVがどこまで国民、特にフィジー系に受け容れられるかは、今次選挙の大きな注目点となった。

2.総選挙結果の点検

 さて、では次にこうした中で行われた総選挙の結果について、詳しく検討を行ってみたい。なおフィジーの選挙制度は1997年憲法の規定により、前回選挙から民族別議席とオープン議席(民族の隔てなく投票する議席)の2つのカテゴリーに分けられ、ひとり2票を投じる制度になっている。また当選者の確定には有効投票数の過半数が要件とされ、それに満たない場合は、順次最下位者の票を有権者が示した優先順位に従って振り分ける選択投票制注6が採用されている。

フィジー系議席(定数23)  結果=SDL18、MV5
 フィジー系では二つの新政党のみが議席を獲得し、前回議席を獲得した5政党はいずれも当選者ゼロという結果となり、文字通り勢力地図が激変した。特にSVTの凋落は目を覆うばかりであり、前回選挙では「忌避」された(非支持者が同党を嫌い選択順位を下位にしたことにより、第一位投票で過半数を得られなかった有力候補が、選択順位が進んでいくにつれて他党候補者に逆転され敗北した)結果、獲得議席数は5に留まったものの第一位選択では37.9%注7の得票を集めていたのに対して、今回SVTを第一位選択した有権者はわずか8.6%に過ぎなかった。そして、党勢に関わりなく圧倒的な強さを見せていたアーコイ議員(カンダブ選出)、ラトゥ・イノケ・クンブアンボラ議員(ザカウンドロベ選出)ですらもはや当選しえなかったところに、時代の流れを感じさせた。また前回反SVT票の受け皿となったFAP、VLVも完全にその支持を失っていることが明らかになり、PANUも結党の立て役者でありながらその

 右派的体質から党を追われたトラ元党首が結成した新党フィジー統治党(BKV)との分裂によって基盤である西部の票をまとめきれず、NVTLPはより新鮮な民族主義政党であるMVの登場によりその命脈を断たれた。

表1 2001年フィージー総選挙結果

 一方18議席を獲得して第一党に躍進したSDLは、総有効票の50.1%の票を集め、名実ともにフィジー系を代表する政党として認知された。表2に見られるとおり、SDLは敗れた選挙区も含めて全国的に万遍なく票を集めており、フィジー系はおしなべてこれからのフィジーの再建を同党に期待して票を投じたと考えていいだろう。

 これに対してスペイト事件を評価するMVは、ビチレブ島東部とバヌアレブ島など北部で5議席を獲得した。MVへの票の流れは実質的にスペイト事件をどの地域のどの程度の人々が支持しているのかを見極める上で興味深いものであるが、全国的な支持の広がりは見られなかった。フィジー系全体における得票率は20.2%であり、これを高いと見るか低いと見るかは評価の分かれるところだが、前回選挙でもインド系排斥を主張していたNVTLPが9.1%得票するなど、こうした志向性を持つフィジー系住民はこれまでも少なからず存在しており、チョードリー政権発足以後、さらにはスペイト事件以降の民族主義的風潮の顕在化を考えると、予想された範囲内の数字ではないかと思われる。

インド系議席(定数19)  結果=FLP19
 インド系議席は、前回同様労働党の総取りとなった。前回選挙では接戦となった選挙区すらないほどに圧勝した労働党だったが、今回はさらにそれ以上に票を集め、NFPは完敗だった前回以上の大敗を喫した。また台風の目になるかとも思われた新党NLUPは、熱帯低気圧にすらなれなかった。

今回労働党はインド系の票のじつに74.9%を集めている(前回は65.6%)。インド系住民の労働党への支持はスペイト事件以後も揺るぎなく、逆にますます強固になったものと思われる。

【表2 2001年フィジー総選挙全得票数(第一位選択分)

注1: 得票数太字が当選者
注2: ★は第二位選択以降へ進行した選挙区、★★はその結果第一位選択でトップだった候補者が逆転された選挙区。

注3: 参考に掲げた「小選挙区制」は小選挙区相対多数制、「比例代表制」はドント式(ともに日本で採用している方式)で計算した。

表2-1 フィジー系選挙区得票数  ★選択進行   ★★逆転

表2-2 一般系選挙区得票数   ★選択進行   ★★逆転

表2-3 インド系選挙区得票数

表2-4 ロトゥマ系選挙区投票数

表2-5 オープン選挙区得票数  ★選択進行   ★★逆転

その他(定数:一般有権者議席3、ロトゥマ系議席1)結果=SDL1、NULP1、UGP1、無所属1

 一般有権者注8議席では一般統一党(UGP)、SDL、NLUPが各1ずつを分け合い、ロトゥマ系注9議席では前回同様無所属候補が当選した。前回選挙でUGPが候補者の選定を巡って分裂して以降、「団結して勝ち馬にのり影響力を行使する」政治姿勢を見せてきた一般有権者の動きは大きく変わってきており、上記結果を見ると分裂傾向は今回選挙で決定的になった。大勢には影響はないが、筆者が個人的に注目しているのは、一般有権者東部・北部選挙区で、キリバス系少数民族のランビ島住民が、ヨーロッパ系ベテラン政治家を破り、SDL所属で当選したことである。ランビ島住民がフィジーの国政レベルで議席を得るのは史上初めてのことである注10

オープン議席(定数25)結果=SDL12、FLP8、MV1、NLUP1、NFP1、無所属1、欠員1

 オープン議席では主にSDLと労働党が、時にMV、NFP、NLUPを交えて激戦を繰り広げた。民族別議席では46議席中第一位選択で議席が確定したのが36議席(78.3%)、第一位選択でトップだった候補者が逆転負けをしたのはわずかに2議席(4.3%)だったのに対して、オープン議席では第1位選択ですんなり議席が確定したのは7議席(29.2%)しかなく、逆転劇があったのは全体の3分の1にあたる8議席に達した。その結果、前回オープン議席で18議席を獲得した労働党は8議席に後退し、SDLの後塵を拝することとなった。そしてこれによって民族別議席で拮抗した両党の獲得議席数に差が生じ、最終的にSDLが総獲得議席数で労働党を上回り、第一党としてガラセ党首に組閣の命が下る結果を導いたのである。

3.民意はどこにあったのか ~忌避された労働党~

 さて、では上記のような結果を導いた有権者の意向はどこにあったのか。そしてそれは選挙結果に如何に反映されたのか。今回の票の流れから考察できる有権者の投票傾向として、4点指摘してみたい。

(1)労働党への高い支持
 FLPの第一位選択得票率(=積極的支持)は、スペイト事件による政権崩壊にも関わらず(或いは、であるが故に)依然として高く、1999年選挙当時よりもむしろ増加している。インド系議席で得票率が9ポイントアップしたこととともに、今回大きく議席数を減らしたオープン議席での得票率も前回選挙よりむしろ上回っているのである(前回33.2%から今回35.5%に上昇)。

 ところで、階級政党として1980年代中盤に登場した労働党は、1987年のクーデター以降1990年代を通じてほぼインド系民族政党として機能することを余儀なくされていた。しかし前回1997年憲法に基づく1999年選挙から改めて「オープン議席」が設定されたことと呼応して、再び民族を問わず労働者や農民層の利益を代表する階級政党としての立場をアピールした。そしてそれに成功してインド系のみならずフィジー系の票も集めたことが、前回の大勝利のひとつの要因でもあった。その傾向は今回もまた維持されたのであろうか。表3は前回と今回、第一位選択で労働党が集めた総得票数の対比である。前回選挙では、民族別議席よりもオープン議席で多くの票を集めているが、これは民族別議席で労働党に投票しなかった(候補者不在でできなかった)フィジー系及び一般有権者系国民がオープン議席で労働党を第一位選択したためであろう。ところが今回は逆にオープン議席の方が民族別議席よりも得票数を減らしている。この要因として考えられることは、①非インド系の支持が減った、②選択肢が限られている民族別議席では次善策として労働党に票を投じたインド系が、オープン議席ではより支持したい他政党候補に票を投じた、の2点が考えられる注11。いずれが主要因であるかは数字からは読みとれないが、一見拡大したかに見える労働党への支持は、国民全体で考えた場合は、じつはやや翳りが見られるのではないかと思われる。

表3 労働党(FLP)の獲得票数
 1999年  2001年
インド系   108,743    108,459
フィジー系     3,352      3,857
一般・ロトゥマ系       0        0
民族別小計   112,095    112,316
オープン議席   119,787    109,381
(2)労働党への忌避

 いずれにせよ労働党の得票率は前回以上であった。しかしにもかかわらず今回の選挙で労働党は獲得議席数を減らした。それはすべてオープン議席でのものであり、オープン議席での労働党の獲得議席数は前回の18議席から8議席へと大きく後退した。これはいったいなぜか。それはまさに前回SVTが落ちたのと同じ陥穽、すなわち選択投票制による「忌避」を受けたからに他ならない。

表4 選択制によって逆転した選挙区一覧

【1999年】 【2001年】
区分 選挙区 当初首位→当選者 区分 選挙区 当初首位→当選者
Fijian 5 SVT→VLV Fijian 12 PANU→SDL
Fijian 8 SVT→FAP Fijian 13 BKV→SDL
Fijian 10 NVTLP→FAP Open 49 FLP→SDL
Fijian 11 SVT→FAP Open 50 FLP→SDL
Fijian 14 FAP→SVT Open 52 FLP→SDL
Fijian 20 SVT→FAP Open 53 FLP→SDL
Fijian 21 SVT→FAP Open 54 SDL→NLUP
Fijian 22 SVT→FAP Open 63 FLP→NFP
Fijian 23 SVT→FAP Open 65 FLP→SDL
General 24 UGP→ 無所属 Open 67 MV→ SDL
General 25 UGP→ 無所属
Open 48 SVT→FLP
Open 55 SVT→FLP
Open 65 SVT→FLP
Open 67 SVT→FLP

注:選挙区番号は表2に対応している。

 表4は前回と今回の選挙で、オープン議席において選択投票制による逆転現象が発生したケースをまとめたものである。ここには極めて明瞭に、前回SVTが受けた「忌避」が、今回はFLPの上にふりかかったことが示されている。そしてその結果、労働党は第一位選択ではSDLの1.5倍もの票を集めながら、獲得議席数は逆にSDLに1.5倍の議席を奪われた。そしてこれこそが、労働党が第一党になることを阻んだ要因であった。

(3)受け皿としてのSDL

 他方、SDLは選択投票制の結果、オープン議席で(1名を逆転で失ったものの)6名を逆転当選させ、フィジー系議席でも2議席を逆転で獲得した。そしてこれにより第一党の座を確保して政権党の座に着いた。オープン議席における第一位選択の得票率は、労働党35.5%に対してSDLは24.1%である。結局これは労働党の敗北と表裏をなす関係だが、他の政党の支持者たちの多くが、労働党が再び第一党となってチョードリー首相が再登板することを好まず、「次善の政治集団」としてSDLを選択したということなのではないか。これは西部のフィジー系議席で、第一位選択の際にはいずれも地域に強い基盤を持つ政党であるPANU及びBKVの後塵を拝しながら、結果的にはSDL候補者が当選したことからも窺える。無論、選挙区戦においては各候補者ごとの人気勝負ではあるが、全体的に見て「よりましな政党」として「消極的支持」を集めたことが、SDL勝利の大きな要因であったことは否めないと思われる。

(4)北東部フィジー系のスペイト支持
 最後に言及しておきたいのは、スペイト事件を誰が支持しているのかという点である。これは同事件を肯定的に評価するMVの登場によって、今次選挙の票の動きから把握が可能になった。
 上述のように、タイレブ北部(ビチレブ島北東部)、バヌアレブ島のフィジー系住民たちは、SDLよりもMVを選択した。かつてSVT、或いはこれに右側から反旗を翻したVLVに流れていたこれら地域の保守的な土壌は、スペイト事件によって一気に先鋭化したと思われる。もともと高位酋長を擁するこれら地域は、フィジー系内部の政治意思決定には無視できないパワーを有しており、今後彼らの声の代弁者としてお墨付きを得たMVに如何に対応していくかはガラセ首相の手腕が問われるところとなろう。

 他方、もうひとつ注目したいのは、首都スヴァ及びその周辺地域のフィジー系の票の流れである。このあたりには東部・北部から流入したフィジー系も多く、都市化の進行による経済階層分化によって潜在的に現状に不満を有する層が少なからず存在している。しかしながら彼らの気持ちは、必ずしもそのはけ口として民族主義的志向に向かっているのではなさそうである。これは、タマヴア/ラウザラ選挙区やナシヌ選挙区等、スヴァ周辺のフィジー系有権者がほぼおしなべてSDLを圧倒的に選択したことから明らかである。必ずしもこのことをフィジー全体に敷衍できるわけではないが、同じフィジー系であっても、貨幣経済に依存している層と、生活基盤を「土地」に依存している層との間で、フィジーの進むべき道についてのズレが顕在化したとも読みとれる。無論これはすでに20年以上前から指摘されていたことではあるが。かつてのマラ率いる同盟党、或いはランブカ率いるSVTといった、フィジー系住民全体を代表する統一的な政治集団が解体した現在のフィジーにおいて、こうした利害の調整にはより高度な政治力が要求されることになろう。

結びにかえて ~フィジーの不幸~

 1987年の労働党政権の成立と2度にわたるクーデターの後、フィジーはインド系を政治の中枢から制度的に排除する10年間を経て、1997年に再び「民族和解」、「挙国一致」を目指した新憲法を制定して再スタートを切った。しかしその結果導かれたものは、再び民族対立の激化と政治的混乱であった。その要因を1997年憲法の欠陥、或いはその選挙制度の失敗に求める議論も少なくない注12
 しかし1997年憲法で豪州をモデルとした傾斜式選択投票制を採用したフィジーの選挙制度は、「支持を集めた政党」ではなく、「忌避されなかった政党」が勝利するシステムである。すなわち支持不支持がはっきりと分かれる極端な政党には不利で、相対的に穏健な政党に有利な制度となっている。そしてこのシステムに乗って前回1999年選挙ではそれまで政権党だったSVTが忌避され、労働党とその同盟下にあったフィジー系のFAPが議席を伸ばして、労働党が圧倒的勝利を得る中での連立政権が形成された。選挙制度の恩恵によって労働党が単独過半数を制したことで、チョードリー政権発足前後の緊張は最小限の混乱で乗り切ることができ、スペイトらの蜂起までの安定的な政権運営を可能にした。
 今回の選挙では、依然として労働党への支持者は少なくなかったにもかかわらず、労働党の再勝利に不安を持つ国民たちの意思が反映され、選挙前に伝えられていた労働党有利の風評を覆して同党が第一党となることを阻止した。実際問題として、労働党が第一党になった場合、その政策の善し悪しは別として、選挙後の混乱と対立は確実に現在フィジーが経験している以上のものになったであろうことは、フィジーの実状を知る者であれば誰しもが同意するであろう。
 このように過去2回の選挙結果を見る限り、現行選挙制度それ自体は混乱の要因とはいえず、その時々の民意をより確実に反映し、確保したのではないかと結論できる。むしろ問うべきは、「挙国一致」を目指した1997年憲法で確保されたはずの1987年クーデターの総括と「民族和解」の思想が、依然としてその後の政治過程の中に生かされることなく、再び蒸し返される状況を作ってしまった為政者の失敗なのではなかろうか。
 1999年選挙前には、民族問題はほとんどの国民の意識から政治イシューとしては遠ざかっていた注13。にもかかわらず、再びこれが先鋭化し、フィジー系、インド系双方に妥協の幅を狭めてしまったことは、フィジーにとって大きな不幸としかいいようがない。しかしフィジーの民族対立は、世界の各地で繰り返されているものとは異なり、今のところ流血と報復を繰り返す凄惨な状況には至っていない。必ずしもフィジー系とインド系が憎悪しあい、殺しあいを繰り広げているわけではない。まだまだじゅうぶん修復可能なのである。
紙数が尽きた。民族問題に苦吟し、和解と対立を繰り返したフィジーのこの15年間について、いずれ稿を改めて論じてみたい。

注1 筆者は現在在パラオ日本大使館に勤務しているが、本稿は日本政府の立場・見解とは一切関係のないことをあらかじめお断りしておく。
注2 本稿における政党表記は、初出時のみ日本語表記プラスアルファベット略称を使用するが、フィジー労働党(FLP)以外の政党については日本語表記の定訳が確立されておらずまた一般的ではないので、変則的ながらFLPのみ「労働党」、それ以外の政党はアルファベット略称を使用する。
注3 現行憲法では「挙国一致政府」の形成を求め、総議席の10%以上を獲得した政党の政権参加を義務づけている。今回の選挙で労働党はこの条件を満たし、また政権参加の意思を示したにもかかわらず、ガラセ首相はそれを拒否して労働党を閣 外へと追いやった。労働党はこれを憲法違反として法廷で争う姿勢を示している。
注4 候補者を立てた政党は18党にのぼり、これは同様に「多党乱立」が指摘された前回の15政党をも上回っている。
注5 1999年選挙結果の概要と分析については、拙稿「フィジー新政権成立の分析」(『パシフィックウェイ』通巻112号、太平洋諸島地域研究所)を参照願いたい。
注6 オーストラリアの選挙制度をモデルにしたものと思われる。詳しくは東裕「フィジー諸島共和国の新選挙制度とその思想」(『パシフィックウェイ』通巻112号、太平洋諸島地域研究所)参照。
注7 以下得票率表記は、すべて第一位選択時における得票率を表す。
注8 フィジーではフィジー系、インド系、ロトゥマ系(注9参照)以外の国民、具体的には白人、中国人、太平洋諸島人、及び混血者に対して、General Voterというカテゴリーを設定している。
注9 フィジー北方にあるロトゥマ島出身者で、ポリネシア系住民。
注10 直接本稿には関係ないが、ランビ島住民は歴史的経緯により、出身地であるキリバス共和国議会にランビ島代表議席を持ち、故郷であるバナバ島議席も実質的には彼らの保有議席であるところを考えると計2議席を有している。第二次大戦後フィジーに移住して以来独自のアイデンティティを維持してきた彼らがフィジーにおいて国政レベルでの発言権を確保したという点で、今回選挙は大きな結節点となると思われる。
注11 この対比・分析を行う上で、無効票比率の相違については検討済みである。他方、投票は個人候補者に対して行うものであることには留意しておきたい。
注12 たとえばフィジータイムズ紙におけるナセイ元議員(NFP)のコラム。或いはブンニンボンボ元蔵相(SVT)の2000年9月11日付デイリーポスト紙でのコメント。
注13 1999年選挙時の国民の関心はもっぱら経済問題であった。貸借期限が切れるサトウキビ農地問題を如何に解決するか、そして長期化し腐敗が噂されはじめたランブカ政権の継続を望むか否かを含め、焦点は経済不振から如何に脱却するかであり、直前の世論調査では民族問題を争点とした国民はわずか2%であった。
刊行書籍のご案内

太平洋諸島センター

Copyright © 一般社団法人太平洋協会 All Rights Reserved.